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竹林軒出張所

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『日本語の美』(本)

日本語の美
ドナルド・キーン著
中公文庫

とりとめもなし
目新しさもなし


b0189364_18572228.jpg 日本文学研究者のドナルド・キーンのエッセイ集。Ⅰ、Ⅱ、Ⅲの3部構成になっており、『中央公論』の巻頭言として2年間連載していたものがⅠで、ⅡとⅢがいろいろな雑誌からピックアップしたエッセイ。
 タイトルが『日本語の美』になっているが、日本語の美に関連するような話はない。ただ、エッセイはどれも著者が日本語で書いたもので、しかも日本語について述べたものも多いため、タイトルに偽りがあるわけではない。とは言え、雑多なエッセイの寄せ集めであり、全体的にとりとめがないという印象は拭いがたい。
 石川啄木論や徳田秋声論は『百代の過客〈続〉』と内容がかぶるし、三島由紀夫や安部公房について書いた文章も、あまり目新しさは感じない。総じて面白味がないという印象である。編集サイドのやっつけ仕事という感がなきにしもあらず。この本を読むんなら、『百代の過客』や『ドナルド・キーン自伝』『ドナルド・キーン わたしの日本語修行』などの著書の方をお奨めしたい。
★★★

参考:
竹林軒出張所『百代の過客(本)』
竹林軒出張所『百代の過客〈続〉(本)』
竹林軒出張所『ドナルド・キーン わたしの日本語修行(本)』
竹林軒出張所『私が愛する日本人へ(ドキュメンタリー)』
竹林軒出張所『ドナルド・キーン自伝(本)』

by chikurinken | 2018-08-13 07:56 |

『硝子戸の中』(本)

硝子戸の中
夏目漱石著
岩波文庫

大漱石の身辺雑記

b0189364_14553901.jpg 夏目漱石が、いわゆる「修善寺の大患」から一命を取り留めた後に書いた随筆集。タイトルの「硝子戸の中」は、養生のために自室の中に留まることが多かった漱石が、ガラス戸で囲まれた狭い世界に引きこもりながらも思いのたけを綴るという意味あいで付けられたもの。そのあたりの事情は、序章に当たる「一」で語られる。
 この随筆集は「一」から「三十九」までの39編で構成されており、元々は『大阪朝日新聞』に一編ずつ連載されたものである。それぞれ原稿用紙4枚程度の短い随筆で、中には2回、3回続きのものもある。当然のことながら、漱石の身辺のことが綴られて、小説とは異なる事情がいろいろと語られる。やたら色紙に俳句を書いてくれろと迫ってくる少々異常なファンの話(十二、十三)とか、たびたび家に訪ねてくる、何かを秘めていそうな女の話(六、七、八)とかが印象深い。とは言え、どれも身辺雑記みたいな話で、大漱石とは言え、飛びつくような面白い話はあまりない。
 ただしこの本、岩波文庫だからか解説(竹盛天雄著)が非常に丁寧で、全編がどういう構成になっているかとか、草稿の段階からどのような話が削られたかとか、なかなか興味深い内容が紹介される。さらには、「硝子戸の中」の「中」を「なか」と読むべきか「うち」と読むべきかというような考察もある。まさに「解説」である。文庫本の解説は一般的にひどいものが多いというのが現実であるが、岩波文庫の解説はひと味違う(竹林軒出張所『富嶽百景・走れメロス 他八篇(本)』を参照)。どこの出版社もこれぐらいの文章を載せるよう心がけてほしいものである。
★★★

参考:
竹林軒出張所『こころ(本)』
竹林軒出張所『三四郎(本)』
竹林軒出張所『草枕(本)』
竹林軒出張所『漱石の印税帖 娘婿がみた素顔の文豪(本)』
竹林軒出張所『夏目漱石の妻』(2)〜(4)(ドラマ)』
竹林軒出張所『漱石悶々(ドラマ)』
竹林軒出張所『富嶽百景・走れメロス 他八篇(本)』

by chikurinken | 2018-08-11 07:55 |

『父の詫び状』(本)

父の詫び状
向田邦子著
文春文庫

三題噺みたいなエッセイが多い

b0189364_18595306.jpg 脚本家、向田邦子の処女エッセイ集。元々『銀座百点』という雑誌で連載していたもので、その中から24点を抜粋して一冊の本にしたというのがこの本。
 全体的には、書き殴りみたいなエッセイで、あるテーマに沿ったいくつかのエピソードを書き連ねるというものである。そのため、あまり面白味のないものもあるが、著者の幼少時代について書いたエピソードはかなりユニークである。
 こういった箇所では、著者の幼少時代の父母、兄弟姉妹、当時の生活の想い出が描かれており、それがために昭和初期から戦後までの日本の1家族の姿というものがあぶり出されていて、非常に興味深く読んだ。特に、小さなことで怒りすぐに怒鳴り散らす父親のエピソードが非常に印象的であり、この父親のイメージは、著者が脚本を書いた『あ・うん』の登場人物とも重なる。こういうところに著者の経験が反映されているということがわかる。また、このエッセイに登場する著者の母のイメージもこのドラマの登場人物(妻であり母である女性)に近いような気がする。
 目を引いた項は、表題作の「父の詫び状」の他、「お辞儀」と「子供達の夜」あたりか。「お辞儀」に出てくる黒柳徹子の留守番電話のエピソードは、『トットてれび』でも再現されていたもので、割合有名な話だが、初出はこのエッセイだろうと思う。ちなみに『トットてれび』には「向田邦子」(ミムラが演じていた)も登場していた。あのドラマはつまらなかったが「向田邦子」の印象は残っている。また「父の詫び状」についてはその後ドラマ化されている。内容についてはよく知らないが、このエッセイのエピソードをまとめてドラマにしたものではないかと推測される。
★★★☆

参考:
竹林軒出張所『あ・うん (1)〜(4)(ドラマ)』
竹林軒出張所『阿修羅のごとく(ドラマ)』
竹林軒出張所『阿修羅のごとく パートⅡ (1)〜(4)(ドラマ)』
竹林軒出張所『胡桃の部屋 (1)〜(3)(ドラマ)』
竹林軒出張所『思い出トランプ(ドラマ)』
竹林軒出張所『寺内貫太郎一家 (22)(ドラマ)』
竹林軒出張所『花の名前 向田邦子漫画館(本)』
竹林軒出張所『その時あの時の今 私記テレビドラマ50年(本)』

by chikurinken | 2018-08-09 06:59 |

『AI vs. 教科書が読めない子どもたち』(本)

AI vs. 教科書が読めない子どもたち
新井紀子著
東洋経済新報社

論理の飛躍がはなはだ多い
特に後半は読むに堪えない


b0189364_17002021.jpg AI(人工知能)の研究をしているという数学者が、現在いろいろと物議を醸しているAIの真の正体をさらす本。「AIが神になる」、「AIが人類を滅ぼす」、「シンギュラリティ(AIが人間の知性を超える点)が到来する」などと世間で言われていることは現状ではあり得ないというのが著者の意見。しかしながら、近い将来、現在人間が行っている多くの仕事がAIに取って代わる可能性は非常に高いという。そのために、私たちはAIに取って代われないような技能を習得し、AIに仕事を奪われないようにすべきと主張する。ところが、AIにとって一番苦手な技能である読解力を、今の日本の若者の多くが持っていないため、しっかり勉強させて読解力を付けさせるべきというのがこの本の主張である。
 前半は、AIの専門家の立場から、AIの限界について語っていて、なかなか有意義である。特に昨今、AIは、将棋や囲碁など、さまざまな分野で人間より優れたパフォーマンスを示しており、しかもアメリカではクイズ王になるAIすら登場していることが注目を集めている。そのため現在、AIの無限の可能性があちこちで語られるようになっているが、現実的には、人間の能力にはまったく及ばないらしい。そもそもAIに仕事をさせるためには、そのために人間がプログラムを書いたり、さまざまなデータを教え込んだりしなければならず、しかもそれはすべて数学的な知識が基になっているため、数学的に解明されていないさまざまな事象については、機械で肩代わりさせることは不可能である(著者によると)。つまり、脳の働きを含む、自然界の事象のほとんどはいまだに未解明であるため、機械に人間の脳の働きをさせることはできないと言うのである。そのため、人間の智を超えるような機械を、現時点で人間が作り出すことは不可能ということになる。実際、普通の人間がごく簡単にできるようなことでさえ、機械にやらせることには多くの場合多大な困難がつきまとうらしい。
 現在AIが過剰に注目されているのは、ディープ・ラーニングなどの手法で、機械自体が自身で学習できるようになったたためであるが、実際のところ、これは過大評価に過ぎないというのが著者の主張である。著者によると、数学は、現在「論理」、「確率」、「統計」の3つの方法で表現されているが、現実的には機械で「論理」を行わせるのは困難を極める。そこで「確率」、「統計」により、あてずっぽうで結果の正解率を上げているというのが現状らしい。このあたりが前半部分で、こういう専門家による体験的な理屈にはなかなか説得力があって、なるほどね……と思う。

 ところが後半になって、現代の日本の若者の読解力の問題や、AIに仕事を奪われないよう読解力をつけさせるべきなどという主張になると、ツッコミどころが満載になってくる。このあたりは、科学や統計の体裁を取っているが、ほとんどが著者の直感だけの議論で、論理性が著しく欠如している。したがって説得力がなく、読むに堪えないというのが、僕の感想である。
 まず、今現在の子どもたちに読解力がないということを示していく。そのために、自らが開発したリーディングスキルテスト(RST)なるものが紹介される。そしてこれを、いくつかの学校で実施させた結果、結果が芳しくなかったということが、子どもの読解力のなさを証明する有力な証左だというのだ。このあたりがさも事実であるかのごとく、ダラダラと紹介されていく。だがこのRST自体、僕が見るところかなり怪しい代物であると思う(内容は中高の受験教材みたいなものであるため、ある程度の基礎知識がなければ誤解するのも免れないと思える)。これができたから読解力がある、できないから読解力がないなどというのは、一つの(宗教がかった)見方に過ぎないと感じる。著者によると、このテストは、素材自体、教科書から採用したものであるため、「これを誤解すること」=「教科書が読めない」と結論付けられるそうだが、教科書を読む場合でも、通常は基本的な知識を身につけた上でなければ内容がわからないことは往々にしてある。したがって、同じ学年の生徒が同じ学年の教科書の文章を見せられて誤解したとしても「教科書が読めない」と断定することには無理がある。よしんばそれで「教科書が読めない」ということになったとしても、そうであれば、その教科書の記述に問題があるという結論の方が正しいのではないか。
 また、たとえ教科書が読めないからといって、それでAIが苦手な仕事を行うことができないという結論も論理が飛躍しすぎている。この本で紹介されている「10〜20年後まで残る職業」の中には、学校の成績と関係ないようなものもたくさんあるし、読みづらい教科書が読めなくても問題はないと感じるものも多い。
 先ほども言ったが、RST自体、高校や大学の受験の問題で出てくるような形式の問題が多く、結局これができたということは受験の問題ができるという程度の証明にしかならないように思う。進学校の生徒の成績が良かったというような結論も示されているが、当たり前である。進学校ではそういう勉強ばかりやってんだから。

 著者は現在「教育のための科学研究所」という社団法人の代表をやっており、RSTもここが開発したものだそうで、このRSTを全国の中学・高校に普及させたいと考えているらしい。しかもRSTを採用した学校、およびその教員については、意識が高いなどとべた褒めしている。僕には、この著者の主張は、結局のところ、日本の受験ヒエラルキー擁護者〈あるいは学歴至上主義者〉によく見られるような議論、言い換えるならば難関大学(入学難易度の高い大学)に行った人がエラいみたいな受験至上主義のように映る。このRSTというテストも、受験勉強至上主義のあだ花のように見える。そのため個人的には、このようなバカバカしいテストをありがたがって採用したりする学校がこれ以上現れないことを切に願う……ということになる。
 この本の後半部分から受ける印象は、自分が設定した結論に持っていきたいがために、いろいろな都合の良い題材を集めてその裏付けに使っているというものである。これを勘案すると、この著者の愛読書がデカルトの『方法序説』だというのも十分頷ける話である(このことは、本書で紹介されている)。デカルトは、同様の帰納的な方法論を採用して、神の存在を証明してしまった人だ(もちろん『方法序説』の中で「我思う故に我あり」という画期的な発想をしたことは評価に値するし、それがこの著書の価値を決定しているわけだが)。
 またこの著者は本を年間5冊程度しか読まない(だが自分には読解力がある〈これについてははっきりとは書いていないが〉)などとも豪語しているが、読解力をつけるには、ある程度の数の本を読むのは必要条件だと個人的には思う。著者は、本の数と読解力には関連性がないことがデータで示されているみたいなことも書いているが、詳細については書いていない。そのあたりについても、本当にそうなのか、どうやってそのことを証明したのか、その証明方法に説得力があるのかということについて、この本の後半部でデータを示しながら紹介してほしかったところである。僕としてはむしろ、この著者の読解力、文章作成能力、論理力の方を疑問視したいところである。

 このようにこの本の後半部分は、科学の体裁を取っているが、論理の飛躍がはなはだ多く、本当にこの著者は数学者なのかと感じるほど、論述が非論理的である。そのため、著者が出しているいろいろな未来予想が、どれもデタラメに思われ(実際にそうなんだろうが)、結局は自分が直感的に思ったことを並べているだけではないかと感じる。こういう展開にしてしまうと、せっかくある程度説得力を持つ前半部分(AIの真の姿をさらした部分)の価値も著しく低下してしまう。
 要するに、大した発想力もないんだから自分の専門以外にあまり口を出さない方が良いですよ、というのが僕の私見ということになる。言い換えれば、専門バカの方は、自分の専門に絞って、できれば周りの人が面白いと感じるような専門的な知識を披露すべきではないですか……というのが、一読者としての僕の考え方である。
★★☆

参考:
竹林軒出張所『運命の一手 渡辺竜王 VS 人工知能・ボナンザ(ドキュメンタリー)』
竹林軒出張所『棋士VS将棋ソフト 激闘5番勝負(ドキュメンタリー)』
竹林軒出張所『最強ソフトVS個性派棋士(ドキュメンタリー)』

by chikurinken | 2018-08-07 07:00 |

『ブレイブ 勇敢なる者 前・後編』(ドキュメンタリー)

ブレイブ 勇敢なる者 “えん罪弁護士” 前編・後編
(2018年・NHK)
NHK-BS1 BS1スペシャル

こんな弁護士がまだいるのだ

b0189364_20010550.jpeg 日本の刑事裁判での有罪率は99.9%にも上るというが、この事態が異常であることは火を見るよりも明らかである。「推定無罪」の原則からすれば検察側が容疑者の責任を証明しなければならないはずだが、実際の日本の刑事裁判の現場では、弁護側が無罪であることを証明しなければならないらしい。しかもそのハードルはかなり高く、少しぐらいの証明では簡単に一蹴されてしまう。現在の日本の刑事裁判の現場では「有罪であることを確認するだけ」になっていると言われるのも十分頷ける話である。いずれにしても無罪判決が出るのは1000件の刑事裁判でわずかに1件程度ということになっている。ある弁護士によると、一般の弁護士であれば生涯に1回無罪判決を引き出せるかどうからしいが、現在14件の無罪判決を勝ち取っている弁護士がいる。それが今村核という人で、この人がこのドキュメンタリーの主役である。
 この今村弁護士、冤罪の疑いのある案件については、徹底的に調べ上げ、さまざまなデータを集めて、科学的なアプローチで無罪の証拠を積み上げる。しかも1つの証拠だけでは採用されない可能性が高いため、さまざまな方向からアプローチし、証拠を二重三重に積み重ねて、法廷に挑む。その執念たるや、周囲の弁護士も舌を巻くほどである。だが実際のところ、刑事事件の弁護ではわずかな報酬しか得られないため、収入は非常に少ないらしい。現在独身で、しかも親の遺産で買ったマンションに住んでいるため何とか生活ができているという状態らしい。だがこういう弁護士の姿は、清廉潔白に映り、第三者的に見ている分には大変好ましい。
 とは言え、こういった真っ当な活動を行っている弁護士が食い詰めているという状況は明らかに異常であり、しかもほとんどが検察の言い分で判決が決まってしまうという日本の法曹界の現状も異常である。今村弁護士は、そういう状況に立ち向かいたいという意識でいるようだが、こういう問題は、本来であれば法曹界が(あるいは国といっても良いが)中心になって解決すべき事象である。1弁護士が巨大な問題に立ち向かっている様子は、ドンキホーテのようではある。だがしかし、その活動を認める人々は確実に増えてくるだろう。少なくともこういったドキュメンタリーが作られ、それが多くの一般人の目に触れるという状況は、改善への道筋に繋がるのではないかというような淡い期待も抱かせるのである。
第50回アメリカ国際フィルム・ビデオ祭シルバー・スクリーン賞
第54回ギャラクシー賞受賞
★★★★

参考:
竹林軒出張所『死刑弁護人(ドキュメンタリー)』
竹林軒出張所『ふたりの死刑囚(ドキュメンタリー)』
竹林軒出張所『約束 名張毒ぶどう酒事件 死刑囚の生涯(ドキュメンタリー)』
竹林軒出張所『時間が止まった私(ドキュメンタリー)』
竹林軒出張所『検事のふろしき(ドキュメンタリー)』
竹林軒出張所『私は屈しない 特捜検察と戦った女性官僚と家族の465日(ドラマ)』

by chikurinken | 2018-08-05 07:00 | ドキュメンタリー

『オウム 獄中の告白』(ドキュメンタリー)

オウム 獄中の告白 〜死刑囚たちが明かした真相〜
(2018年・NHK)
NHK総合 NHKスペシャル

アリバイ作りのような番組
結局わかったようでわからない


b0189364_18232374.jpg 先日、麻原彰晃を含むオウム関連事件の首謀者7人が処刑されたが、それに合わせて放送された「アンサー・ドキュメンタリー」である(その後、残りの6人も処刑)。
 彼ら受刑者たちが獄中で弁護士と接見したときの会話記録や、獄中から出した手紙から、オウム関連事件でどのようなことが起こったかを推測しながら、当時の事件を再構成して振り返るという内容である。
 会話記録や手紙、あるいは公判内容から事件の真相をあぶり出して、こういった事件が二度と起こらないようにするというのは、後の時代に住む我々の務めではないかと思うが、残念ながら死刑に処してしまったら結局わからずじまいのことがたくさん残ってしまうのは理の当然。まだわからない部分が多い(このドキュメンタリーでもそう言っていたが)にもかかわらず、なぜ(再審請求が出されている)この今の時期にいきなり7人も処刑してしまったか、法務省あるいは政権の良識を疑うところだが、ともかくこれによっていろいろな事実が闇の中に消えてしまったというこの事実は覆ることはない。
 実際このドキュメンタリーで紹介された、受刑者たちのいくつかのコメントからは、なかなか真相が見えてこない。このドキュメンタリーも、タイミング的に作る必要があったのかも知れないが、内容は、わかったようでわからないという状態で、きわめて物足りない。個人的には、オカルト・ブームで育ってきたアニメ世代の空想が、風通しの悪い組織で起こりがちの暴走と絡み合った結果、あのような連続殺人事件にまで行きついたのではないかと思うが、当事者の間でどのようなやりとりや葛藤があったのかがなかなか見えてこない。当事者がいなくなってしまったら、結局何も解明されないまま、この事件も過去の中に埋もれていくことになる。
 あの上九一色村にあったサティアンと呼ばれる教団施設は、ショッカーのようで不気味以外の何ものでもなかったが、ああいったショッキングな風景さえ、記憶の彼方に消えていってしまう。何らかの形できちんと総括しなければ、また同じようなことが繰り返されるかも知れない。この中途半端なドキュメンタリーを見て、そういう思いを強くしたのだった。
★★★

参考:
竹林軒出張所『未解決事件File. 02 オウム真理教(ドキュメンタリー』
竹林軒出張所『死刑(本)』
竹林軒出張所『A(映画)』
竹林軒出張所『A2(映画)』
竹林軒出張所『「A」 マスコミが報道しなかったオウムの素顔(本)』

by chikurinken | 2018-08-03 07:23 | ドキュメンタリー

『“悪魔の医師”か“赤ひげ”か』(ドキュメンタリー)

“悪魔の医師”か“赤ひげ”か(2018年・NHK)
NHK-Eテレ ETV特集

医療の問題というより
日本社会の病理


b0189364_19555310.jpg 2006年、愛媛県の宇和島で、万波誠という医師が行った腎臓移植手術が話題になった。これが耳目を集めたのは、何らかの病気で摘出された腎臓(病気腎)を、腎疾患患者に移植したためで、このような移植手術は一般的に「病気腎移植」と呼ばれる。日本で行われたのはこれが最初で、特にそれまで医師会などで事の是非が議論されていなかったことから、医療関係者をはじめとして、さまざまな批判が万波医師に浴びせられることになった。中には、金目当てで無謀な手術を行ったとして万波医師を「悪魔の医師」などと呼んでいる週刊誌記事まであって、ここまで来ると、かなり意図的な悪意を感じる。このような悪意のある見方が広がってきたことから、検察まで動き出して病院に家宅捜査が入ったりしたが、結局不起訴になり、いつの間にか世間の話題に上ることもなくなった。
 そもそも、腎疾患の現場では、提供される腎臓自体が非常に少なく、腎移植を待つ患者が大勢控えているという現状がある。しかもたとえ移植に使える腎臓が手に入ったとしても、適用障害が起こる可能性もあり、移植用の腎臓の圧倒的な不足に拍車がかかることになる。そこで、がんなどで摘出された腎臓を、がん細胞を除去した上で再利用すれば、それまで捨てていた腎臓を移植に再利用できることになり、患者にとっても医師にとっても願ったり叶ったりということになる。そういうわけで、この万波医師、こういった腎臓の使用にあえて踏み切ったのである。世間の反応はあらかじめ想定していたらしいが、そのフィーバーぶり(?)あるいは悪ノリぶりは想像以上だったらしく、自宅にまで乗り込んで「白状したらどうだ」などと迫る記者まで現れたらしい。ところが実は、このような病気腎移植、米国では割合普通に行われていて、問題になることもそれほど多くないらしい。そのため、米国の医師からすると、なぜ日本の事例がこのような大騒ぎになったのか理解不能らしいのである。
 当時の週刊誌などについては、現状をさして知らないまま、ことを面白おかしくセンセーショナルに扱っただけというのが本当のところのようで、また批判した医療関係者についても、(病気腎移植が)自分の理想とする医療と異なるために非難したというのが真相のようである(このあたりは、このドキュメンタリーで少しずつ明らかになる)。だが、こういった非難・中傷の流れが世間にできてしまうと、状況を知らない一般人も、事の真相を知らないまま、これに飛びついてフィーバーしてしまう。そして結局、「悪徳医師によって悪辣な所業が行われた」ということが既定の「事実」になってしまい、まったく無関係の人間であるにもかかわらず、したり顔でこの医師に一斉に非難を浴びせることになる。日本でよく見られる構図である。
 このドキュメンタリーでは、万波医師、患者たち、当時批判を浴びせた人々、賛成派の人々などから話を聞き、この「事件」を振り返る。日本社会の極端な保守性、弱い立場の人間への無責任な攻撃性、世間にはびこる利己的な自己満足などがあぶり出されてきて、そのあたりが特に興味深い部分である。芸能人のバッシングや冤罪事件などでもこのような構図が見られるのはご存知のとおりだが、こういった行動は見苦しいし、同時にきわめて異常な状況である。一人一人がもう少し自分の頭で考えて、物事についてしっかり判断できれば、こういったバカな風潮はなくなるかも知れないが、今の日本では、残念ながらこれが現実である。この番組のように、過去の騒動について、時代を経て振り返ると、あまりにバカっぽい現象であることがすぐにわかるが、こういった風潮に乗っかって単にバカ騒ぎしていた連中は、結局すべてをきれいに忘れてしまって、まったく気にしなくなるのだろう。このようなバッシングについては、中傷していた人間を吊し上げて相応の責任を取らせたいところだが、日本のような無責任社会ではそういうこともあまりないようだ。そのためにいつまでも同じような風潮が続くのである。
★★★☆

参考:
竹林軒出張所『死刑弁護人(ドキュメンタリー)』
竹林軒出張所『光と影 光市母子殺害事件(ドキュメンタリー)』
竹林軒出張所『正しさをゴリ押しする人(本)』
竹林軒出張所『調査報告 STAP細胞(ドキュメンタリー)』
竹林軒出張所『アは「愛国」のア(本)』

by chikurinken | 2018-08-01 07:55 | ドキュメンタリー