ストーカーと呼ばないで
(アルバム
『始まりでもなく 終わりでもなく』
に収録)
歌:小林啓子
作詞:オオタスセリ
作曲:オオタスセリ
ストーカーと呼ばないで あなたが 好きなだけ
ストーカーと呼ばないで あなたを見てるだけ
通勤電車の 同じ車両 幸せな 毎日
砂を噛むよな 私の暮らしに 明るい日が差した
スーツ姿に 縁なし眼鏡が 自信に満ちていて
あなたをもっと知りたくて 後をつけました
お勤めの会社 わかったので 有給とりました
後は自然に あなたのお家が わかりました
ストーカーと呼ばないで あなたを つけただけ
ストーカーと呼ばないで あなたが 好きなだけ
一人暮らしの カーテンに あなたのシルエット
飽きもしないで 夜中まで 眺めておりました
あなたのお部屋を 眺めるのが 日課になりました
帰りの遅い日は ちょっと 心配になりました
ある日あなたは 女の子連れて 帰ってきました
思いきって 書きました 手紙を書きました
ストーカーと呼ばないで 手紙を 出しただけ
ストーカーと呼ばないで あなたが 好きなだけ
あなたのポストに 手紙を入れるの 日課になりました
ついでにあなた宛の手紙も 毎日読むようになりました
あなたの事 知れば知るほど 夢中になりました
思いきって かけました 電話をかけました
あなたに無言電話をかけるのが 日課になりました
何を話して良いのか 接点がないので
毎日 無言で かけました
ストーカーと呼ばないで 声が 聞きたいだけ
ストーカーと呼ばないで あなたが 好きなだけ
あなたが電話に出なくなり 寂しさが募り
思いきって 作りました 合鍵作りました
あなたのお部屋に 入るのが 日課になりました
いい事 悪いことの区別が全然 つかなくなりました
気がつけば まわりを それは沢山の お巡りさんに
囲まれておりました
でも信じて下さい 私は
あなたが好きなだけでした
ストーカーと呼ばないで あなたが 好きなだけ
ストーカーと呼ばないで 今でも あなたが 好きなだけ

元歌は、オオタスセリという芸人の(どちらかと言うと)コミック・ソングだが、小林啓子のは、情が入っているというか、ともかく表面的な「笑わせにかかる」ようなものにとどまらないように思う。だからといって、山崎ハコのような深い情念の世界でもなく、もう少しサラッとしていて、思い込みが少し可愛らしくもあり、何だかこの主人公に愛しささえも感じてしまう(実際にこんな人がまわりにいたら、そういうわけにいかないだろうが)。オオタスセリのオリジナル版もCDで聴いてみて、さらにYouTube(『徹子の部屋』に登場したときのもの)でも見てみたが、どうしても芸人のネタという感じが漂っていて、いや、それはそれで面白いんだが、小林版とは少し趣が異なる。もちろん元祖はオオタスセリ版だが。
さて、この小林啓子だが、知っている人は知っているが知らない人はまったく知らない(僕もまったく知らなかった)かつてのキャンパス・フォークの女神だったようで、「日本のジョーン・バエズ」と呼ばれていたらしい。なるほど、そう言えばバエズ風の歌い方である。しばらく前に引退していたらしく、最近復帰してまた何枚かアルバムを出し、そのうちの1枚が、この曲を収録している
『始まりでもなく 終わりでもなく』
である。「始まりでもなく、終わりでもなく」という力の抜けた感じが伝わってきて、どの歌も気負わずに「表現」している。カバーが多く、自身が昔歌っていた曲もセルフ・カバーしている(「さよならを言う前に」、「比叡おろし」、「恋人中心世界」)。
このアルバムの最後に収録されている「ストーカーと呼ばないで」だが、コミック・ソングではあるが、しかしそれにしても一片の真理が秘められているような気がする。人が悪事を働いて摘発されたりすると、多くの人は「よくそういうことができるな!」と思うが、しかし当人にとってもいきなりそういう極端なことに手を染められるわけではなく、自分の納得できる範囲で少しずつ少しずつ、自分をだましながら、認知的不協和を解消(
「『なぜあの人はあやまちを認めないのか』(本)」を参照)しながら、結果的にそこに至ったのである。「思えば遠くに来たもんだ」というような心境に近いと思う。
今朝もテレビで、法の裏をかくような方法で(高利で)金を貸している人が出たが、例の顔を隠して音声を変換した上で「借りる方が悪いんだ」などと言っていた。おそらく、こういう発想をすることで、認知的不協和を解消しているのだろう。ということは、こういう人もやはりどこかで悪事を働くことに抵抗があって、自分をだましているということなのだ。こうして考えてみると、人間は生まれながらに悪であるとは言えないんだろうなと思う。
それはともかく、「ストーカーと呼ばないで」の漸進の過程は、まったくのフィクションであるとしても真実が込められていると思う。その真実を表現する上で小林啓子の歌は非常に効果をあげている。このアルバムの他の歌もなかなか味があって、この小林啓子という人、なかなかの実力者である。「女神」の称号が決してダテではないことを思い知らされた。
参考:
竹林軒出張所『なぜあの人はあやまちを認めないのか(本)』