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竹林軒出張所

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『北朝鮮 “帰国事業” 60年後の証言』(ドキュメンタリー)

北朝鮮 “帰国事業” 60年後の証言(2019年・NHK)
NHK-Eテレ ETV特集

「帰国」という名の片道切符

『北朝鮮 “帰国事業” 60年後の証言』(ドキュメンタリー)_b0189364_20153985.jpg 今から60年前の1959年に始まった北朝鮮の「帰国事業」を振り返るドキュメンタリー。「帰国事業」とは、戦後日本国籍を剥奪されたせいで差別や貧困に苦しんでいた在日朝鮮人を北朝鮮に返すという事業である。ただし実際に「帰国」した人の多くは朝鮮半島南部の出身者(つまり「北朝鮮」出身でない人)であったらしい。
 この事業、元々は、日本にある在日朝鮮人の団体、在日本朝鮮人総聯合会(朝鮮総連)が、当時の北朝鮮主席であった金日成にあてて帰国の請願を出し、北朝鮮政府がそれを受け入れるという形で始まったとされる。実際には、この話を最初に持ち出したのは北朝鮮政府側であり、北朝鮮政府が韓国に対する優越性を誇示するために朝鮮総連に求めてきたというのが本当のところらしい。当時北朝鮮は、ソ連からの援助もあって、韓国より経済が良好で、自国が韓国より優れていることを世界中にアピールしたかった、そしてこの帰国事業がその宣伝活動の一環だった、というのである。一方の日本政府の方も、在日朝鮮人を体よく追い出すことができるということでこの話に乗ったのであった。こうして、1959年から約10年間に渡って「帰国事業」が進められることになる。それに当たって、もっとも積極的に取り組んだのが、当然のことながら朝鮮総連であった。
 この帰国事業にあたり、朝鮮総連は「(北朝鮮が)この世の楽園(である)」という宣伝文句で多くの在日朝鮮人を「帰国」させる。日本で経験していたような貧困は、北朝鮮にはないというのが彼らの主張であった。仕事もあるし、福祉も充実しているなどという言葉が誘い文句になり、現状に不満を感じていた在日朝鮮人は、一もなくこの話に載ってしまう。ただ「帰国」した人の中には日本人も含まれていた他、総連から半強制的に連れて行かれた人もいたという。
 このドキュメンタリーでは、関係者の証言を新たに聞き出しており、かつて「帰国事業」に参加した人々のインタビューも多く出てくる。彼らの話によると、新潟港を出港して2日後に北朝鮮のチョンジン港に着いたが、そこでまず、現地の人々の貧困の度合いにショックを受ける。日本に住んでいた我々の生活の方がずっとましではないか……ということである。すぐに日本に帰りたいという人も現れるが、もちろん日本への帰国など受け入れられない。しかも彼らの多くは北朝鮮国内の社会になかなか溶け込むこともできず、むしろ当局から危険分子として扱われることもあったという。彼らの中には強制収容所に送られた人もおり、最終的に日本に帰ることができた人はほぼいない。唯一の例外は脱北者で、命からがら何とか中国経由で韓国、日本に辿り着いた人々が多くはないが存在し、そういう人たちが今回、このドキュメンタリーで当時の事情を語っているのである。
 途中、黄長燁(ファン・ジャンヨプ)氏(竹林軒出張所『3年目のつぶやき……くらい大目に見てよ』を参照)のインタビュー音声も登場し、北朝鮮が政治的な活動として日本から人々、それから物資や資金を呼び込むのが「帰国事業」の目的であったと語っていた。結局犠牲になったのは、騙されて北朝鮮に渡った人たちで、この番組に登場する人々の家族も、あるいは餓死し、あるいは強制収容所送りになって悲惨な最期を遂げたと言う。伝えられる内容自体は、それほど目新しいものではなかったが、経験者の話を直接聞けるという点で非常に貴重なドキュメントに仕上がっていた。
★★★☆

参考:
竹林軒出張所『オモニの島 わたしの故郷(ドキュメンタリー)』
竹林軒出張所『3年目のつぶやき……くらい大目に見てよ』
竹林軒出張所『金正日 隠された戦争(本)』
竹林軒出張所『北朝鮮“機密ファイル”(ドキュメンタリー)』
竹林軒出張所『北朝鮮 外貨獲得部隊(ドキュメンタリー)』

by chikurinken | 2019-07-02 07:15 | ドキュメンタリー
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