テレビがくれた夢 山田太一 その2(2013年・TBS)
TBSチャンネル2
脚本家本人による作品解説 前に紹介したTBSチャンネルの対談番組、
『テレビがくれた夢 山田太一 その1』に続き、『その2』も放送された。この『テレビがくれた夢』シリーズは、TBSで仕事をしたテレビ関係者がインタビューを受けて、さまざまなTBS製作ドラマについてエピソードなどを語るという企画だが、山田太一はやはりテレビ界の重鎮ということで2回に分割して放送された。『その1』が30分、『その2』が30分で都合1時間の対談ということになる。この『テレビがくれた夢』シリーズの放送に伴い、TBSチャンネルで、過去のいろいろなドラマが放送されていて、そのラインアップは非常に華やかである。山田太一のドラマもご多分に漏れず、TBSで話題になった山田ドラマは今回全部放送されているんではないかというほどの充実ぶりで、30年来待っていた『沿線地図』まで放送される(9月21日)。うれしい♡。
そういうこともあって、この『その2』では、今回放送されるさまざまな山田作品について、山田氏自身がコメントするという構成で、『その1』ほどの面白味はないが、それでも資料的な価値があると思われるので、『その1』にひきつづきその内容を再び掲載しようかと思う。途中聞き取れない箇所があったため、その辺は適当に省略している。また面白味のない箇所も適宜省略している。
内容的には、なんといっても音楽に関する話が興味深かった(70〜80年代の山田作品は音楽がとにかく素晴らしい)。それにしても『高原へいらっしゃい』が『七人の侍』だったとはね……。
★★★☆参考:
竹林軒出張所『テレビがくれた夢 山田太一 その1(ドキュメンタリー)』竹林軒出張所『テレビがくれた夢 山田太一 その1 続き(補足)』竹林軒出張所『テレビがくれた夢 山田太一 その2 続き(補足)』竹林軒出張所『輝きたいの(1)〜(4)(ドラマ)』竹林軒出張所『100年インタビュー 脚本家 山田太一(ドキュメンタリー)』竹林軒出張所『山田太一のドラマ、5本』竹林軒出張所『続・山田太一のドラマ、5本』竹林軒出張所『山田太一のドラマ、プラス10』竹林軒出張所『その時あの時の今 私記テレビドラマ50年(本)』 --------------------------
テレビがくれた夢 山田太一 その2より
話し手:山田太一、聞き手:木村郁美
語り:まずは、ラジオの深夜放送の世界を描いた『真夜中のあいさつ』。せんだみつお演じるリスナーからの手紙をきっかけに、彼が思いを寄せる女性を番組の中で探し出し、恋を実らせようと周囲の人々が応援するというストーリー。
● 『真夜中のあいさつ』(1974年)について
山田:ずっと経って、あの『電車男』っていうのがあって……あれはあの、ラジオじゃないですよねぇ。だけど構造としては……(笑)。
木村:そうですよね、私も思いました、見てて。あ、なるほど、ネットかラジオかの違いですよね。だんだんみんながこう……
山田:知らない人同士が集まってくるっていう話をねぇ。メディアのツールが変わってくるからね。あの、で、両方似たようなことを考えてんだなと思いましたけどね。
木村:当時の時代背景を、すごくこのドラマを通じて知ることができたのが、本当に当時の若者とかいろんな方々、深夜のラジオを熱心にああやって聴いてたんだなっていう……
山田:ええ、ええ、そうですね。それ僕、面白いと思ってね、で、書いてみたんですよ。
語り:続いての作品は『高原へいらっしゃい』。田宮二郎演じるマネージャーが、経営難に陥ったホテルを再建するべく、自らスタッフを集め、奮闘する姿を描いた作品です。実はこの作品も、意外なところから発想されたそうです。
● 『高原へいらっしゃい』(1976年)について
山田:このときはね、『七人の侍』、あれはあの手練れの侍をこう雇う話じゃないですか。だんだんみんな、ね。
木村:そうですね。
山田:あれをじゃやってみようかなと思ってね、それで信州の高原の、廃屋近くなってきたホテルを再建することを頼まれて、「やろう」と思って、それで街中へ行ってウェイトレスを見てて、このウェイトレスに声かけてみようとか、中年の男に声かけるとかいろんな風にして……
木村:それが七人の侍なわけですね。
山田:そうそう、七人の侍みたいに集めて……。それでみんなは誰に声かけられたんだかわかんないまんま、あそこのホテルへ、廃屋みたいなホテルに来て、ロビーでみんなで座ってると、こう、らせん階段の上からね、田宮二郎が「皆さん、よく来てくれた」っていう風に、そういうかっこつけてもおかしくないでしょ、ホテルの支配人だからね。
木村:どういうところで、この脚本、こういうドラマを描こうっていうアイデアって生まれてくるんですか?
山田:いや、それは(笑)……こっちがつまり、もう食べていくっていうことが基本にあるからね。やっぱり切実ですよ、良いもの作らなきゃいけないと思ってるからね。だからしょっちゅう針は動いてますよね。で、たとえば『高原へいらっしゃい』は『七人の侍』のパクリだとは言われないでしょ(笑)。そういう風に全然違えばいいわけですよね。
木村:でも、ちょっとしたヒントっていうのはその日常生活の中に常にこうアンテナを張り巡らせて……
山田:そうです、そうです。
木村:手に入れてるんですか。
山田:ええ、そうですね。で、何もかも新しくやるっていうことはできませんですよ、人間ってね。前世代から積み上げてきたものを踏み台にして、次の物語を書くわけだけども、テレビはあの、前世代っていうものがなかったじゃないですか。それだから、やっぱり映画を参考にせざるを得ないですよね。それで、書いていくうちに、映画とテレビは違うっていうことにだんだん気が付いてきたわけね。それで、ナレーション使ったり、あの手この手をね、「つづく」っていう風に書くだけだって違いますよね。映画は「つづく」っていうのはあまりないですよね(笑)。
木村:「完」ですもんね。
セリフというか言葉使いとかも、すごいホントに今の時代とも違う……特に『岸辺のアルバム』の八千草さんの口調とか、私すごい真似したくなるぐらい、「〜かしら」とかすごい素敵だと思うんですけど、そういう会話の、言葉の使い方っていうのも、日常こういろんな人の会話を聞いて書いたりするんですか?
山田:ええ、そうですね、まあ、あの俳優さんに合う言い回しっていうのは考えますけれども。
その辺の食堂みたいなとこだと相席っていうのが当たり前だったのね。それだから、込んだときに行くと相席になるでしょ。で、それで一人ずつの相席だと何も面白くもなんともないけど、向こうがあの、2人くらいで、その、問題抱えてるおばさんとそれに何かこうね、忠告をするおばさんが2人で座ってしゃべり出すとね、僕がいることなんか忘れちゃうのね。「もしもし僕聴いてますよ」って言いたくなるようなことだってしゃべってんのね。それ、おかしかったけどね。でそういうときにすごく……まそう滅多にないけど、「ウワッ、使いたい」っていうセリフを言ったりする人がいるわけですよ。それを使うために考えようとか思って、で書き終わってみると、そのセリフはないのね。まず、ないことが多いな。
木村:へーっ。
山田:つまりね、自分を通すと、やっぱり自分に合わないセリフはね、面白いけどカットしちゃうわけね。しかしその、テンション、凡庸じゃないセリフ……っていうのはやっぱり、それに負けないようにこっちが書こうと思ったら……
木村:たぶん、山田太一さんの中で変換して、山田さんの温度で言葉に変えていくわけですよね……
山田:そうそう、負けないくらいのところで維持しようとするっていうふうに……「そうなの」「うん」っていうふうに、こうなめらかに流れないように(笑)書くとかね。なんかそういう、ある教訓みたいにしてそういうセリフを手にするって言うかな。あんまり実際には使ってないんだけどね、だけど刺激になる。
木村:(フィルモグラフィのフリップを指して)この『岸辺のアルバム』は、山田太一さんご自身がお書きになった小説をご自身が脚色なさったドラマですね。
山田:そうです。
木村:このまたタイトルからすると、なんてホンワカしたと思いきや……衝撃的な内容ですよね。
語り:倦怠期を迎えた夫婦の危機と、大人になっていく過程で悩みを抱える子どもたち。そんな家族が崩壊していく姿を描いた『岸辺のアルバム』。多摩川の洪水で家が流され、家族が大切なものを取り戻すというストーリー。辛口ホームドラマの名作として、ドラマ史に残る作品です。
● 『岸辺のアルバム』(1977年)について
山田:もうずっといっぱい書いてるわけですよね、他の局やなんかで。そうすると、なんかそうじゃない世界のものを書きたくなるのね。テレビでは企画は通らないだろうけれども、でもやりたいなっていう。そういうときに新聞社の人が、「あなた新聞小説書けそうだから書かないか」って言ってきてくださったのね。それで書いたんですよ。だからあの、通りそうな企画を出すわけじゃない、何書いたって良いってんだから。もう、家族にいろいろ暗い部分があって、しかもそれ全部流されてしまう、最後。その上で、ある、こう、この第一歩が始まるっていう話をね、書いてみようと思って書いたんですね。で、途中まで連載が続いてるときに、もうTBSが「テレビにしたい」っておっしゃってくださって、これはうれしかったですよ、とっても。こんな暗い話、最後にみんななくなっちゃうのなんか、テレビで企画だけ、書類だけを出したらね、とんでもないって言われちゃうと思うのね。だけど小説に書いたっていうことで、ある種のオーソライズをされたっていうのかな。
俳優さんもすごかったけども、こう皆さんでこうカーッとやろうっていうのかな……
木村:伝わってきました、見てて。
山田:それはね、うれしかったですね。
木村:これ、でも、すごい印象的だったのは、あの「ウィル・ユー・ダンス」。
山田:あ、そうそう。それは堀川とんこうさんっていうプロデューサーがね、なんか前にジャニス・イアンでドラマ……一つ使ったんだそうです(注:『グッドバイ・ママ』のこと)。そしたら、ジャニス・イアンの方でその許可を出すときに、もう1回、ジャニス・イアンを使ってくれればっていうようなことがあって、どっかでジャニス・イアン使おうと思ってらっしゃったっていう……
木村:使わなきゃいけなかったわけですね(笑)。
山田:そうそう(笑)、そういうようなことをおっしゃってたけど。でもその「ウィル・ユー・ダンス」っていう曲、あの歌詞、もう陰々滅々とした歌詞ですよ。その辺で死んでる人見ても知らん顔してようとかね、親が子どもにね、我が家がすばらしい家庭だって騙しておこうとかね(笑)。そういうすごい歌詞で。それで、そういう歌詞だって感じさせない、甘い……
木村:メロディが全然違います。
山田:すごいじゃないですか。あんな、つまり根性のある歌。で、しかも甘い曲、っていうのをよくまあ見つけてくれたなって思う、僕は。それとね、それから連続のタイトルの最初に1回目から洪水の映像を見せちゃってるってことね。あれもね、僕はプロデューサーの力だって、とても思いましたね。
木村:先にエンディングを見せちゃうというのは、かなり新しい手法ですよね。
山田:(笑)そうですよ。ええ、よくあんなことやったなと思いますねぇ。感謝してます、歌も含めてね。で、あのねぇ、良い作品ができるときってねぇ、不思議なくらいスタッフやなんかみんな、こう良い人達で集まるっていうと語弊があるかもわかんないけど、みんなこう割合グッとやろうっていうタイミングのときってのがあるのね。
語り:山田さん原作の小説を自ら脚本化した『沿線地図』。何不自由なく生活していた優等生の若者が、高校を中退し同棲生活を始めた。さまざまな問題を抱える家族の姿を通して、幸せとは何かを問いかける作品です。
● 『沿線地図』(1979年)について
木村:あの、この『沿線地図』も主題歌、すごい良かったですね(フランソワーズ・アルディの「もう森へなんか行かない」)。
山田:ええ、これも片島謙二さんっていうね、もうホントに『岸辺』のときからそうなんだけども、プロデューサーの助手さんだったかな、その頃は。もう音楽がすごく好きな人でね、僕は『同棲時代』であの……
木村:吉田拓郎さん。
山田:そうそう、あれもね、片島謙二さんから教育されたのね(笑)。
木村:ああそうですか。
山田:「とっても良いからね、拓郎で」っとか『同棲時代』で言って。それで僕はもう、僕も好きになってたから、あの、使うっていう風になって。それで、サザンの『ふぞろい』もそうなんだけれども……
木村:『ふぞろいの林檎たち』、はい。
山田:片島さんが担当して、音楽の方のプロデューサーになってくれてると、ホントに僕を傷つけないでね、3曲ぐらいいろんなアーティストのアルバムを送ってきて、それでこの3人の中でどれを選びますかとかいう風に訊いてくれるわけ。
木村:あ、最後の選択権は山田さんにあるんですね。
山田:って、あるかのごとくにね。ところが聞くと、その、目玉のものが一番良いようになってるわけです(笑)。
木村:(笑)それを選ばざるを得ないような状況があるわけですね(笑)。
山田:(笑)だけどね、それの、とてもそういうところがナイーブでね、うれしかったですね。それだからサザンもそうでしたけど、『沿線地図』もフランソワーズ・アルディの曲でしたけどね。
笠智衆さんの、僕は笠智衆さん好きなんで、笠智衆さんに出ていただいたんだけど、それが児玉清さんのお父さんの役で、それで、妊娠しちゃうんですよ、その高校生の女の子が。「絶対、お前生め」っておじいちゃんは言ってくれるだろう……と思って行くんです。そうすると「つまらんよ、生むことはない」って言われちゃうのね。それで「えっ」て、「ヒューマニズムじゃないんだ」とか(笑)ショック受けるわけね。それで少し経つと、おじいちゃん首吊って死んじゃうんですよ。つまりもう、他のお父さんたち、児玉清さん世代は、もうおじいちゃんを別居させて放ってあるわけですよ。それで「つまらん」ってんで死んじゃうんですよ。それで児玉清さんがものすごくショック受けてね、首つりの紐をこうやってほどいてね、座り込むシーンがあるんですけどね。
(収まらないため
次回に続く)