テレビがくれた夢 山田太一 その1(2013年・TBS)
TBSチャンネル2
山田センセイの話を拝聴 TBSチャンネル2というCSチャンネルがあって、過去のドラマ(もちろんTBS)をまとめて放送するという企画を続けている。そのTBSチャンネル2だが、テレビ番組の制作に深くかかわったスタッフをゲストに迎えて、名作の知られざるエピソードを紹介するというオリジナルのインタビュー番組を30分枠で先月くらいから続けている。その月に放送されるドラマの製作者が多いことを考えると一種の番宣と言えるが、それでも珍しい話が聞けるため、内容は面白く見応えがある。6月と7月は、TBSチャンネル2で山田太一のドラマを大量に放送する関係上、やはり山田太一もこのインタビュー番組に登場してきた。山田太一の話を聞いていると、やはり戦後のテレビ脚本家の第一人者だなと感じる。このインタビューによると、テレビ・ドラマでよく使われているナレーションも山田太一が始めたということらしい。以前紹介した
『100年インタビュー 脚本家 山田太一』同様、このインタビューも非常に密度が濃かったので、今回も書き起こすことにした。中には当事者しか知り得ないような、資料的な価値がある情報も多いため、ここで紹介しようと思う。
内容は確かに深く、充実しているんだが、途中映像を大分端折っているようで、繋がりがあまり良くない箇所がある。そのためこのスクリプトを読んでいて違和感のある箇所がいくつかある。そのあたりは残念。ま、それでも、インタビューの価値はあまり損なわれていないと思う。
案の定と言うか、6月と7月の放送予定作品に関連した話が多く、昨日紹介した
『同棲時代』についての話もある。
★★★☆参考:
竹林軒出張所『テレビがくれた夢 山田太一 その1 続き(補足)』竹林軒出張所『100年インタビュー 脚本家 山田太一(ドキュメンタリー)』竹林軒出張所『テレビがくれた夢 山田太一 その2(ドキュメンタリー)』竹林軒出張所『テレビがくれた夢 山田太一 その2 続き(補足)』竹林軒出張所『山田太一のドラマ、5本』竹林軒出張所『続・山田太一のドラマ、5本』竹林軒出張所『山田太一のドラマ、プラス10』竹林軒出張所『その時あの時の今 私記テレビドラマ50年(本)』 --------------------------
テレビがくれた夢 山田太一 その1より
話し手:山田太一、聞き手:木村郁美
語り:脚本家、山田太一さん、大学卒業後、映画会社、松竹へ入社。昭和を代表する名監督、木下恵介さんの下で助監督として働き、脚本家への道を歩み始めました。そして、木下恵介アワーやポーラテレビ小説などで数々の名作を世に送り出しました。その後も、独特の手法と着眼点で、『高原へいらっしゃい』、『ふぞろいの林檎たち』、そして『岸辺のアルバム』など、数多くの名作を手がけた、日本を代表する脚本家の一人です。そんな山田太一さんの名作の舞台裏に迫ります。
● 脚本家になったいきさつ
木村:山田さんには伺いたい話がたくさんありますが、まずはこちらに主な作品を挙げてみました。これはほんの一部で、しかもTBSのみですので、他局を合わせますと膨大な数になります。山田さんはご自身の作品がどれくらあるかって把握なさってるんですか?
山田:いやぁ、してません(笑)。ええ。ある時期、ビデオテープというのはね、どんどん消してしまいましたから、テープが高いということでね。30年間くらいの間のビデオテープは、ドラマに限らず、いろんな分野のものがないわけですよね。テレビ文化っていうものの最初の部分が、フィルムで撮ったものは別ですけども、ビデオで撮ったものは今ないわけですよね。もうこれは取り戻しようがない。その中でまあまあ結構、私は残ってる方かなと思ってね。今になればね、むしろ白黒のテレビの方がなんか珍しくて、時代を感じて面白いっていうふうになったりしますよね。ですから、その、狭い時代の価値観で僕たちはね、やっぱり生きてんだなってことをとても感じますですね。
木村:そうですよねぇ。山田さんは脚本家でもいらっしゃいますが、そもそも脚本家を目指して、この世界に入られたんですか?
山田:テレビ界へね、入ったのは、あの、脚本家として入ってきたという感じですね。その前はね、映画会社にいましたから……
木村:松竹ですね。
山田:ええ、ええ。松竹にいましたし、助監督でしたから。助監督はいわばまあ演出修行をしてるわけですよね。ですから、あの、僕はあの、あんまりその、映画を作りたいとかいう強い思いっていうのではなくて、あの、すごい就職難だったのね。
木村:はい。
山田:それで僕は学校の先生になろうと思って教師の免状はとったんだけれども、コネクションがないと実際には就職できないっていうふうに、まぁ言われたっていうか、そういう状況だったわけね。
木村:はい。
山田:それだから、就職課みたいなところへ、大学のね。聞きにいったら、松竹が撮影所の助監督を募集してるぞっていうんで、それで受けにいったらね……
木村:たまたま次に、松竹の助監督の試験があったからであって、それがなかったらもしかしたら……
山田:なかったら全然違うことをしてたかもわかりませんですね(笑)。
木村:へえーっ。
山田:それで、観客動員数のピークが、私の就職した年なんです。昭和33年(頷く)。ですから映画の監督になろうと思ってる人はいっぱいいたんですよね。
木村:花形の職業だったってことですよね……
山田:花形っていえば⋯⋯(笑)。
ほんとに不遜なんだけれども、あの、入ってから映画の勉強を、本当に一からさせていただいたっていうかな。木下恵介さんという、ま、当時……今だって巨匠だと思いますけども、その組に私は付くようになって、それで木下さんが、あのー、松竹では思うような映画がもう撮れなくて、つまり巨匠の作るものって金がかかりますから(笑)。だから確実に当たらないとすごい損を抱えちゃうんで、木下さんが申し出る企画っていうのを、松竹がまあ渋ってたわけですね。それで、だんだんつまり辞めようかっていう気分もおありだったと思うんだけれども、あのー、テレビ局がね、代理店の方を通じてだけれども、木下さんに番組を持ってもらえないかっていうオファーを、非常に熱心に来られたのね。私は助監督でいつも割合そばにいましたから、そのオファーの激しさ(笑)、熱心さっていうのもちょっと感動してたところもありました。それで、映画はまだ隆盛でしたから、テレビのあの安っぽい映像なんかのところで仕事をするっていうことは恥ずかしいような感じもあったりしてね。ところが木下さんはやっぱり偉い方だなと思うけど、やってみようっていうふうにお思いになって、木下さんの鞄持ちみたいにして後付いて、「君辞めるか」って、松竹をね、「辞めるか」って言ってくれたときに「辞めます」って言って辞めちゃったんですよね。
木下さんは脚本をたくさん用意しなければ、1年間ずっと連続で書くわけですから。それで『記念樹』っていうのは最初何人かの脚本家に頼んだんですけれども、大半は私と木下さんで書いたんですね。それで1回ずつ物語は違うわけです。俳優さんも違うっていうのを、ずっともう五十何本も続けたんですよね。ですからそれはとても僕は勉強になったし、もうともかく書け書けっておっしゃるわけね。で、ご自分も書くわけですから。それで、書いては持っていくっていうことをしてたら、木下さんが入院なさっちゃったのね。病院へ行って、寝てらっしゃるとこで読むわけですよ。自分で書いた(ものを)……
木村:はい。
山田:それを木下さん、ベッドで目をつぶって聞いてらして、それであそこのあのセリフは要らないとかね、あそこはちょっともう2セリフ増やした方が良いとかっておっしゃるんですよ。それはもうすごい天才的な把握力でね。これで良いっておっしゃるとそれが決定稿ってことになって、廊下にプロデューサーが座って待っててくれてね。
木村:はい。
山田:それで渡すと、そのプロデューサーがすぐ大船撮影所へそれ運んでっていうふうなこともありましたですね。
語り:山田さんが脚本家としてデビューして間もない頃、小説を原作としてテレビドラマ用に脚本化する、いわゆる脚色を担当した作品が、木下恵介アワー『女と刀』でした。
● 『女と刀』について
山田:これ、中村きい子さんっていう鹿児島の作家の小説なんですけど、それを木下さんがやりたいっておっしゃって、木下さんが頭3本くらいお書きになったのかな。それで後二十何本だったかな、僕が書いたんですけどね。それはね、すごく勉強になりました。
木村:勉強になった……
山田:ええ、すごい良い小説でね。中村きい子さんがどこかの新聞に「テレビドラマが終わって」っていう感想の文章をお書きになってね。それでまあ、もちろん褒めてはくださってたんだけど、もうちょっと笑いがあるといいって(笑)書いてあってね。ほんとそうだと、僕はそのとき思いました。うん。自分はやっぱりね、そこまで余裕がなかったっていうかな。ともかく脚色っていうものがこんなに勉強になるんだなっていうことは、とても思いましたですね。
語り:脚本家として初めて連続テレビドラマを一人で手がけたのが、『3人家族』。主人公2人のそれぞれの核家族の姿を描いた作品で、木下恵介アワー歴代最高視聴率を記録しました(最高視聴率は36%、平均視聴率でも30.5%を記録)。
● 『3人家族』について
山田:その頃高視聴率だったんでね、終わったときにね、TBSがちょっとしたパーティを開いてくれたのね。
木村:へぇー。
山田:なんかいろんな代理店の人やなんかが来て、それで「ああ、これで俺は食っていけるかな」と(笑)。ひそかにですけど、誰にも言いませんでしたけど。
● 『パンとあこがれ』について
山田:あの、『パンとあこがれ』っていうのが、ポーラテレビ小説っていうのを始めようと、ま、TBSが企画なさって……
木村:はい。
山田:NHKの朝のドラマと同じ時間帯でやろうっていう、すごいことを考えたんですよ。
木村:NHKの、当時でも朝の小説なんてものすごい視聴率高いですよね。
山田:ええ、すごい視聴率。
木村:その裏にやろうと。
山田:ええ、その裏でやろうっていうんですよ。
木村:わぁ。大役ですね。
山田:それで、その最初のが、最初は楠田芳子さんっていう、木下恵介さんの妹さんの脚本家の方がお書きになったものだったと思います(『三人の母』)。それをやって2番手が僕だったんですね。それで、新宿の中村屋さんの、初代の黒光(こっこう)さんて、黒い光と書くね。奥様を中心に、相馬愛蔵(中村屋創業者)さんってのがご主人なんですけども、それが信州から出て来て新宿でパン屋を始めて、それでだんだんだんだんいろんな問題や出来事があって、インドの独立運動やなんかを助けたりして、匿った人がビハリ・ボース(インド独立運動の志士で日本に亡命。中村屋に匿われる)っていう革命家で、その革命家がカレーライス作ってね(笑)。それであの「カリー」っていう、今でも「カレー」とは言わずに中村屋さん「カリー」って……
木村:「カリー」……はい。あっ、そうなんですか? 知らなかった。
山田:それで、その相馬さんの娘さんが、その人と恋仲になってしまって、それでインド人と結婚をして、その革命家とね。そういう……
木村:そういうドラマなんですか?
山田:いろんなドラマがあるんですよ、面白い(ドラマが)……。ほんとに楽しかった、脚本書いてて。で、俳優さんも宇津宮雅代さんっていう、あの文学座の新人の人がね、やってるうちにどんどんうまくなるんですよ。これはね、やっぱりすごいもんだと思いましたね。女優さんが、こう輝いてくるね。うん。だから視聴率は悪かったんですよ、NHKがもう……
木村:ああ、その真裏ですもんね。
山田:真裏ですからね。ところが、その真裏だっていうことで、ポーラがスポンサーだったんですけど、そりゃあ(視聴率が)悪くてしようがないっていうふうになってるわけですよ。だけどそれをこう、だんだん認知度を上げていけば良いんだから(と言う)。視聴率のことをおっしゃらないわけですよ。少なくとも僕にはね。それだから、書きたい放題っていうかな(笑)、こっちの気に入るように書けたっていうのかな。それで、「こんなことまで書いても良いですかね」とか言うと「良いんじゃないですか、誰も見てないから」とか(笑)
木村:いやだー(笑)。でも、ある意味相当楽しいですね、それは。
(収まらないため
次回に続く)