100年インタビュー 脚本家 山田太一
(2013年・NHK)
NHK-BSプレミアム
山田太一が語るテレビ60年 テレビ放送開始60年記念ということで、テレビと時代をともに歩いた脚本家、山田太一が『100年インタビュー』に登場。前に見たロナルド・ドーア氏の『100年インタビュー』もなかなか見応えがあった(
竹林軒出張所『100年インタビュー ロナルド・ドーア(ドキュメンタリー)』参照)が、この山田太一編も非常に面白かった。
内容も、テレビ観やテレビドラマの可能性をはじめ、脚本家になったいきさつや、脚本家の名前がドラマのタイトルにつくようになったいきさつ(山田太一が初だったらしい)など非常に多岐に渡り、しかも内容が非常に濃い。あまりに素晴らしいんで書き起こしてここで紹介しようと思ったが、分量が相当なものになったのでやめておく(400字詰め原稿用紙60枚分)。
実際にインタビューの箇所は全部一生懸命入力したんだが、これまでいくつかの『100年インタビュー』のタイトルがDVDや書籍で発売されていることが分かってしまって、ここで全部出してしまうのは問題があるのでは……と思うようになった。それに書籍の形で出るのであれば、何もこんな大変な思いをして入力する必要はなかったんではないかとも思う。結構な労力だったんだ、本当のところ。ま、それでもせっかく入力したんで、著作権を侵害しない程度に以下に一部だけ紹介しておこうと思う。ちょっと読んでいただければわかると思うが、語り口が優しく、それに聞き手の渡邊あゆみが話しやすい雰囲気を作っていて、質問も適切で、インタビューとしては大成功なんではないか……と思いますですねぇ、はい。
なお、この番組で取り上げられ話の中で触れられた山田作品は、『男たちの旅路』、『岸辺のアルバム』、『ふぞろいの林檎たち』、『日本の面影』の4作品。どれも興味深い話が聞けた。『男たちの旅路』の「車輪の一歩」は、僕が山田太一を意識し始めた最初の作品で、その製作のいきさつが聞けたのはとても有意義だった。
★★★★参考:
竹林軒出張所『100年インタビュー ロナルド・ドーア(ドキュメンタリー)』竹林軒出張所『100年インタビュー 倉本聰(ドキュメンタリー)』竹林軒出張所『100年インタビュー 半藤一利(ドキュメンタリー)』竹林軒出張所『光と影を映す(本)』竹林軒出張所『山田太一のドラマ、5本』竹林軒出張所『続・山田太一のドラマ、5本』竹林軒出張所『山田太一のドラマ、プラス10』竹林軒出張所『テレビがくれた夢 山田太一 その1(ドキュメンタリー)』竹林軒出張所『テレビがくれた夢 山田太一 その1 続き(補足)』竹林軒出張所『テレビがくれた夢 山田太一 その2(ドキュメンタリー)』竹林軒出張所『テレビがくれた夢 山田太一 その2 続き(補足)』竹林軒出張所『その時あの時の今 私記テレビドラマ50年(本)』 --------------------------
「100年インタビュー 脚本家 山田太一」より
話し手:山田太一、聞き手:渡邊あゆみ
場所:NHK放送博物館
● 脚本家になったいきさつ
渡邊:……テレビって長いこと電気紙芝居って映画の方(かた)に言われてたとか言ってますが……
山田:そうそう(笑)、そういう空気、それはもちろん電気紙芝居と言いながら、実はこれはすごく、後でこう広がっていくぞっていう予感はあったもんですから、わざと気がつかないふりをしてたっていうふうなとこもあったり、それからまあ、テレビの方へ行こうかなっていうような人達もきっといたと思いますけれども、私はその中では結構早めにテレビの方へ行っちゃったというか、これはまああの、木下恵介さんという、先生の組に僕はついていたもんですから……
渡邊:松竹の木下恵介組の助監督でいらした……
山田:はい、助監督でしたんで、木下さんがあのー、最後の映画に近い頃ですかねえ、テレビ局の方と代理店の方が木下さんに、なんとかテレビへ来て作ってもらえないかっていうのをすごく……熱心にいらっしゃってたんです。それならあの、松竹との専属契約は切る、で、テレビに一枠持つっていうふうにだんだん決心を固めていかれたんですね。だけどいきなり行ったってテレビわかりませんから……
渡邊:あ、やっぱり全然違うんですか、テレビと映画は……
山田:そりゃもう全然違います。
渡邊:はい、どういう、特に大きな違いというのは……
山田:大体つまり、映画だったらワンシーン1日ぐらいですよね……
渡邊:えっ?
山田:ええ(笑)。
渡邊:そんなに時間かけて撮るんですかっ?
山田:ええ、巨匠の組は特にね。
渡邊:はい。
山田:ですから、そりゃもう、悠々たるものでしたですね。ライティングの時間も長いし……ですから、あのテレビを知らなきゃしようがないっていうんで、木下さんがテレビを少し見てみるっていうかやってみるっていうのかご自分で少しホンを、脚本をお書きになって、で実際に指揮するのはテレビ局のディレクターに任せて、それでそばにいようっていうことになったんですね。しかし木下さんって大巨匠でしたから、お一人でテレビ局へ来られても、テレビ局の人も困るわけですよね。ずっとちょっとそこにいてっていうわけには行かないから。それで誰か一人つけてくれないかって言われて、それで「君来い」って(笑)、木下さんおっしゃったんで、ずっとカバン持ちして局を歩いたんです。
渡邊:修行期間になったわけですね。
山田:そうですね(笑)。ですからそれで僕は割合スムーズにテレビにこう馴染むことができまして、そうすると30分のドラマでしたけれども、1年間続くっていうとそりゃあ木下さん一人でお書きになれるわけがないんで、それで……
渡邊:毎週1本ってことですか?
山田:そうです。で、「君よすか、松竹を?」って……(笑)
渡邊:やめなさいって言われたんですか?
山田:(笑)いやいやいや、やめなさいとは言われない。
渡邊:松竹退社ってことですか?
山田:ええ。まあ要するに、あの僕があまりディレクターに向いていないとお思いになってたのかもわかりません。それで、脚本書く方が向いてると思ってくださったのかもわかりませんが、「それじゃあよします」って言って、それでもう後は「どんどん書け、どんどん書け」って言われて、書いてるうちにライターになっちゃったという。
● テレビの可能性
渡邊:その頃の、テレビの中でのドラマの影響力、一般の人への影響力っていうか、どういう可能性をそこに見られました?
山田:(考え込んで)テレビ界に入っていったときには、活気がものすごくありましたですね、ええ。それでもうみんなで何かやれる何かやれるって、しかも映画とは違うものをやろうっていうような意気込みが非常に局の人達にもあって、それからなんか、すごく映画みたいに時間がかからないで、1本の作品が作れますでしょう。ですから少々実験的だったってあんまりみんな文句言わないで、そういうことで切り開いていった時期だったと思いますですね、テレビの可能性を。で、それからお客様がいろんな他のメディアがある中でテレビをご覧になるんじゃなくて、実にテレビっていうものは珍しいもので面白いもので、そこでつまりドラマがあるっていうことで、毎週ちゃんとみんな忘れないでその時間になったらテレビの前に座るっていうようなね、そういう集中度がありましたですねぇ。ですから反応もこうビビッドにあったりして……視聴率ってのはそんなに言われなかったけども、実感としては、あの頃の方が、テレビの、テレビドラマが社会の中に入り込んでいく力はあったような気がしますですねぇ。
渡邊:その頃のテレビと映画の違いというのは何でした?
山田:長時間、つまり連続(ドラマ)に関して言いますと、長時間時間が使えますでしょ。たとえば10回連続だったら10時間ぐらい。
渡邊:あ、連続ドラマになるから(納得)。映画だったら2時間とか……
山田:まあいくら長くても3時間ぐらいでしょう。テレビドラマの連続ってなると10時間とか20時間とか、長いものはね、そりゃもう全然つまりスピードが違うんですよね。ですから、細かなルールみたいなものもあんまり縛られなくて、で、つまんないことも撮れるっていうんですかねえ……(笑)
渡邊:はい?
山田:あの、玄関入ってきて、こんちはって言ってずっと下駄脱いで上がって茶の間へ来るまで、全部を撮っていく。その一つ一つに芸術的な緊張とかはないんだけれども、そういうところで拾える細かなデテールの面白さ、つまずいちゃったりしても撮り直さないでそのままいくとかね、何かそういう自由感みたいなもの、そして映画だったら省略してしまうようなものをみんな拾えたような気がしますですね。
渡邊:その連続する時間の長さでいろんなことが描ける、ということ……
山田:ええ。つまり事件を追ってどんどんっていうようなものももちろんあの頃もありましたけれども、そういう犯人は誰だ誰だっていうドラマだったらば、他の日常の描写をしたら何を変なところで立ち止まってんだよって怒られちゃうでしょ(笑)。
渡邊:はい。
山田:だけどホームドラマだと、立ち止まっても別に違和感はないわけですよねぇ。
渡邊:自分たちの生活と同じっていうことですからね。
山田:そうそう、そうですねぇ。ですからとりあえずそういう面白さはありましたですねぇ。
渡邊:ああ、書き込めるっていうことですか。
山田:そうですね。つまんないことまで拾えちゃうっていうことね。
渡邊:はい。その、映画ってやっぱり大きなこと扱ったり、非常にインパクト強いものですけれど、テレビってもっと自然に私達の隣にあったような気がするんですが。
山田:そうですね。
渡邊:それはその、ドラマを書く上ではどうなんでしょうかね。
山田:ええ。そこが面白いっていうふうに思いましたですね。たとえば小津安二郎さんの映画なんか、あれは大した事件がない話ですけれども、それでもワンカットにもう何時間もかけて、ほんと2日もかけて「うん」というとこだけ撮るとかいうような緊張と全然違うところで、ドラマは作れていくわけですよね。それの、なんか情けなさもあるけれども(笑)、楽さって言うのかな、なんかその、映画と違う世界、時間が流れているっていう……気楽さもあったと思いますですねぇ。それから、映画と違おう違おうっていうふうにちょっと思っていたところもありますですねぇ。
● 脚本家の名前がドラマのタイトルにつくようになったいきさつ
(脚本家の名前を冠したドラマ、『男たちの旅路』が登場した件について)
山田:あれはあの、脚本家っていうのが本当に名前が出なくて、オリジナルで書いても、まあたとえば、マスコミやなんかもほとんど書いてくれないっていう時期が、まあ70年代の初めあたりですかねぇ、あって……
渡邊:普通小説家ですと、小説のタイトルと小説家の名前はセットですね。
山田:そうそう。
渡邊:でもテレビのドラマは、山田太一さんの名前こそその時代出てきましたけど……
山田:出てきてもみんな印象に残ってないっていうみたいになってて、それで倉本聰さんとか向田邦子さんとかと、それから早坂暁さんとか、「なんか悔しいじゃない」というような話はしてたんですね(笑)。そしたらNHKが『土曜ドラマ』というのを今度始めるについては、一人ぐらい脚本家の名前を被したものをやろうと思っていて、お前にその気があれば書かないかって言われて、そりゃもちろん書きますって言いますよね。そしたら、条件は鶴田浩二を主役に書いてくれれば何書いてもいいって言われたんですよね。それで、鶴田さんところへ会いに行って、やっぱり戦争、まだ戦争を忘れない人はたくさんいましたから……
渡邊:70年代まではいましたね。
山田:ええ、ええ。ですから戦争を体験して、同じ世代がいっぱい死んでる人達が、これからのつまり繁栄の日本をね、ただ楽しむっていうんじゃなくて、一人ぐらいは忘れないで、死んだ人達に義理をたてて一人で生きていこうって決心した人、そういう人を描きたいっていうふうに思ってね。そりゃま、鶴田さんが、特攻隊で死んだ人達を忘れられないって……
渡邊:特攻隊の生き残りという人でしたもんね。
山田:ええ、ええ、そういうことを一生懸命熱心にお話しになるんで、あ、じゃあそうしようって。それで私はそれよりも10歳ぐらい若いのかな。だから、もう少し若い人の気持ちもわかるから、中間世代の、若い人と、ま、特攻隊世代との両方を描いてみようと思ったんですね。それで、まあ、ああいう作品ができたんですけども、やっぱりそりゃあ成功しないと、他の脚本家に影響がありますから(笑)、絶対こりゃあ、それこそ視聴率取りたいなと思って(笑)、いつもの僕のやり方とはちょっと違うね、一つのワンテーマを作って、そのテーマにどういうふうに鶴田さんは考えるか、若い人はどう考えるかっていうふうにして、ワンテーマずつ書いていこうと思ったですね。そりゃ非常にテレビ的だったと思いますね。
渡邊:そのテーマが、今でも古くない。バリアフリーの問題だとか、ま「シルバーシート」、お年寄りが電車をジャックしてしまうというね、その発想で、自分の主張というものを訴える。非常にその、社会に切り込んだという印象があるんですが。
山田:そうですね。そういうふうに作ろうと思っておりましたから。
● テレビドラマの訴える力
渡邊:それをあの70年代、もう日本が、戦争を忘れてる世代が多くなってきて、高度成長期を経験し、非常に豊かになっている、そのときにあえてそれを出してくる。というのはどういう……あの……
山田:やっぱり、そういうふうに反応する人間が出てきてもいいんじゃないかとは思いましたですね。みんな、だんだんもう戦後ではないみたいなことを言いだした。ねえ、そうじゃないだろうって気持ちはありましたですね。それと、ひとつずつお年寄りのことは、今とは随分違いますけれども、あの頃は「養老院」って言ってましたですね。
渡邊:そうですね。「養老院」って言葉がありました。
山田:それでお国がお金を出してくださってるから、院長さんの言うことはきかなきゃいけないっていうみたいな。だけど老人たちは、人に言えないけども、おかしいって、俺たちこんな扱い受けるのおかしいと思ってて、それでまあ電車をジャックして、じゃあ要求は何かっていうと俺たちを重んじよとは言えませんよね(笑)。だから要求はありませんとか言って閉じこもってるから。言ったら終わりみたいなプライドがあるわけですよ。ねぇ。だけど無念だ、この扱いは無念だと思ってる人を描いてみたいと思ってて、電車ジャックを……警察にみんな最後は連れて行かれちゃう話ですけども、あのまあ、今でもそうやってジャックしたい老人もいるかもわかりませんですね。
渡邊:それからあのいまだにその、バリアフリー、ユニバーサルデザインっていろいろなことは言われるけれども、けしてそんな十全になっていないというこの、だけど自分たち見てみぬふりをしていたかも知れない、気が付きもしなかった。
山田:そうですね。
渡邊:それをドラマでやられてしまったという感じでしたね。
山田:ええあの……非常に反響も多くて、むしろその、車椅子の人達が社会の邪魔になろうと思って訴え始めるっていうことではジャックと、電車ジャックとちょっと似てるんですけども(笑)、いまだに大学やなんかで「車輪の一歩」っていうのはね、教材に使ってるって方がいますですねぇ。まああれも、随分……3年ぐらい、身障者の方とつきあって、それで、ああこの視点だったら書いてもいいなと思って書いたんですよね。
渡邊:その書いてもいいなというのはどういうことですか?
山田:まあみんななるべくうちにいた方が良いよっていうふうな、外行くと迷惑になるからっていうような……人の迷惑にならないということが一つの美徳として言われていて、それは僕はその通りだと思うけれども、でもギリギリの迷惑っていうものまでかけないようにするっていうことだと、身体の不自由な人達はただうちにいればいいっていうふうになってしまう(笑)っていうことですね。ですから迷惑をかけようっていうふうに、かけてもいいんだよってことを鶴田さんが言うわけですけども、身障者の人達がそういうふうに言うっていうのは、社会的には「なんだこいつら、自分のことを(迷惑を)かけてもいいじゃないかって言う」っていうふうに反感を持つだろう、だからこれを鶴田さんが、みんなは遠慮してんのに「君たちは迷惑をかけてもいいんだ、ギリギリの迷惑はかけてもいいんだ」って言う方が、見てる方(かた)が受け入れやすいでしょうっていうふうに言って、まあその人たちと話しして分かってもらって、それでああいう形にしたんですよ。
渡邊:ああ。でもそういうことを、その、まだ当時茶の間というものが存在したと思うんですけど、家族で見てる中に、こういうテーマをぽーんと投げ込んでくる。メッセージをやっぱり山田さんの場合には、非常に強くこう、あのドラマに関してはそう感じました。
山田:あのドラマはそうですね。もうそういうふうにはっきり、そういうドラマを書こうと思って書きましたですね。