父と子 市川猿翁・香川照之(2013年・NHK)
NHK総合 NHKスペシャル
中車を生み出したのは父子の確執か 昨年、俳優の香川照之が歌舞伎役者に転身するという話を聞いたとき、とても残念な気がしていた。なかなか良い俳優だから。それになんで今さらという気もした。
だがそこには、他者からは計り知れない、父、市川猿翁(三代目市川猿之助)との確執があったのだった……ということをこのドキュメンタリーで知った。
香川照之は、三代目市川猿之助(こちらの方が通りが良いから、以下、猿之助)と女優の浜木綿子の間に生まれたただ一人の男児だが、幼少の頃、猿之助が、舞台と家庭を両立できないという理由で家を出て行った(要するに離婚した)。それ以後、香川は長い間猿之助と会うこともなく、母により女手一つで育てられたが、母の方も女優業が忙しく、結果的に、孤独をかこち自分を表に出さない子どもとして成長してきたという。
やがて大学を卒業した香川は俳優を志し、その折に一度猿之助を劇場に訪ねたことがあるが、そのときも冷たくあしらわれたらしく、香川の中では父の像というものがはっきりとつかめなかったようだ。父は父で、歌舞伎界で異端児として扱われ、自分の劇団として大歌舞伎からほとんど独立した状態で興行を行っていたわけで、それなりに厳しい世間の目を感じていたのかも知れない。だがやがて父が脳梗塞で倒れ舞台から身を引き、香川の側も俳優としてそれなりの立場を築くことになって、それぞれに思うところがあったのかも知れない。あるいは「父子の和解」があったのかも知れない。こうして父子は接近し、やがて香川が歌舞伎界に入ることになるのだった。
この番組では、そのあたりの事情も香川の口から吐露されるが、父子関係に関連する感情などは(まったくの部外者である)僕にはもう一つ理解できなかった。一つ彼が言っていたのは、自分の子ども(つまり今の五代目市川團子)へ歌舞伎の世界を受け継いでいないことに大きな悔いがあったということで、歌舞伎界への転身を決めた理由としてそのことを挙げていた。
いずれにしても、香川照之は、市川中車として2012年6月に歌舞伎の舞台に立ったのだった。このドキュメンタリーでは、初舞台に至るまでの香川の奮闘ぶりも当然のように紹介される。祖父がかつて演じた役を演るということで祖父の映像を繰り返し再生したり、あるいは直接猿之助から指導を受けたりして、それはそれは大変な熱の入れようであった。で、実際に初舞台を踏んだときの映像も出てくるんだが、これがなかなかうまく演じていて、僕なんか見た感じだと祖父よりうまく演じていたんじゃないかと思ったほど。過去の型を踏襲するだけでなく、もう少し自由に演じた方が良くなるんじゃないかと思ったくらいである。
父子の確執の部分がもう少しこちらに伝わってくると、(僕にとって)一層グレードの高いドキュメンタリーになっていたんだろうが、しかし香川照之を歌舞伎界に動かしたものが父子の関係性の中にあったであろうことはよくわかった。舞台裏や楽屋の香川の様子などもふんだんに出てきて、非常に興味深いドキュメンタリーに仕上がっていたと思う。なお、ナレーションは、大河ドラマで香川と共演した福山雅治。
★★★☆参考:
竹林軒出張所『和解(本)』