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竹林軒出張所

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『日中外交はこうして始まった』(ドキュメンタリー)

日中外交はこうして始まった(2012年・NHK)
NHK総合 NHKスペシャル

『日中外交はこうして始まった』(ドキュメンタリー)_b0189364_749788.jpg 1972年の日中国交正常化がどのように成し遂げられたか、その過程を、主に日本側の目線で追うドキュメンタリー。
 僕は当時まだ子どもだったのでよくは理解していなかったが、国内的には今以上に反中感情が強かったようで、やり遂げるのは結構大変だったようだ。この直接交渉に携わったのは、当時の首相、田中角栄と外務大臣、大平正芳。田中角栄と言えば環境破壊の親玉ぐらいの印象しかなかったが、対中外交の功績は大きい。また、後に首相になるあの大平正芳が、対中交渉で非常に大きな役割を果たしていたこともわかって、ただの「アーウーばかり言っている頼りない爺さん」ではなかったことがわかった。周恩来がたぐい希な政治家であることもよくわかる。結果的に、民間交流を手始めにして国家レベルの関係を築くというアプローチが功を奏した形だが、外交関係樹立後、日中両国が受けた恩恵は非常に大きい。
 それから政治家というのは本来こうやって何か(この場合、新しい関係)を作り出すのが仕事であるということもよくわかった。昨今の「政治家」は、築き上げられたものを破壊することで名前と人気を挙げているが、まったく話にならない。今回の騒ぎみたいに外交関係を破壊しようとする人間もいるし、ナショナリズムを利用して騒ぎを起こす困った連中までいる。少なくともこういった愚かな人間がトップにいちゃいけないということだ。
 以下、この番組で紹介された日中交渉の経緯のダイジェスト。

日中国交正常化までのプロセス
1955年、アジア=アフリカ会議(バンドン会議)で、当時経済審議庁長官を務めていた高碕達之助が、中華人民共和国首相、周恩来と会見。日中の貿易推進を誓い合う。
1960年、岸信介首相、日米新安保条約調印。中国側の反発。天安門100万人集会。日中関係断絶。
1960年、高碕達之助、中国に渡り周恩来と会談。日米安保条約について説明し、理解を求める。
1962年、LT貿易協定調印。日中間で半官半民の貿易が始まる。
1972年2月、アメリカ大統領、ニクソンが訪中。
1972年7月、田中角栄内閣発足。大平正芳、外相に就任。
中国との予備交渉を通じて、中国側の「賠償請求権を放棄する」、「尖閣諸島問題を棚上げする」という方針が伝わる。
親中派の古井喜実、日中国交正常化の下交渉のため中国に派遣され、周恩来と会談。共同声明の内容まで踏み込む。共同声明に基本的に同意。
1972年9月25日、田中首相、大平外相ら、国交正常化交渉のため訪中。晩餐会の席で、田中首相のあいさつの「中国国民に多大なご迷惑をおかけした」という文言の中国の訳文が、「反省の念がまったくない」として中国側で問題になる。周恩来、翌日の会談で「田中首相の発言は中国人民の反感を呼ぶ」と表明。
1972年9月27日、大平外相、中国外相と車中で極秘会談し、日本の立場を説明。「国として、完全に中国の立場を受け入れることは難しすぎる。最大の譲歩はするつもり。中国に来た以上は政治生命をかけて、必要であれば肉体生命もかけてこれをやり通す」と決意を表明。大平、その夜の交渉で、反省の念を共同声明に盛り込むことを提案。また、日本と中華民国間で締結された日華平和条約の扱いが懸案になるが、玉虫色の文言にし、日中双方で独自の解釈が成り立つようにすることで落着。尖閣諸島問題も棚上げにすることで合意。
1972年9月29日、日中共同声明調印。日中国交正常化。

当事者の語録
周恩来首相「小異を残して大同に就く」
古井喜実(LT貿易事務所政治顧問)「隣国で中国が嫌だから日本はどこかに引っ越ししますというわけにはいかんのだ。だから仲良くして国交を回復するように持っていくのが私の信念だ」
大平正芳当時外相「われわれのもつ可能性は最大限にアジアのために絞り出さねばならない。それこそは単にわれわれのアジアに対する過去の贖罪にとどまらず、これからのアジアの平和と安定に不可欠の礎石であり、それこそが日本自体の生存と安全に通ずる大道であるからだ」
★★★☆

参考:
竹林軒出張所『家族と側近が語る周恩来 (1)(2)(ドキュメンタリー)』
竹林軒出張所『家族と側近が語る周恩来 (3)(4)(ドキュメンタリー)』
竹林軒出張所『日中2000年 戦火を越えて(ドキュメンタリー)』
竹林軒出張所『日中“密使外交”の全貌(ドキュメンタリー)』

by chikurinken | 2012-10-02 07:50 | ドキュメンタリー
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