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竹林軒出張所

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『日本の夜と霧』(映画)

『日本の夜と霧』(映画)_b0189364_8311711.jpg日本の夜と霧(1960年・松竹)
監督:大島渚
脚本:大島渚、石堂淑朗
出演:渡辺文雄、佐藤慶、戸浦六宏、桑野みゆき、津川雅彦、小山明子、芥川比呂志

 「60年安保闘争の総括」みたいな話で、とりとめのない議論が延々と続く。結婚披露宴を縦軸にした回想形式のストーリーだが、言ってしまえばだらしない展開である。演出も中途半端だし、役者もうまくない。それにやけに長回しが多く、セリフも恐ろしく長い。そのためか役者も演説をぶつときにあちこちでとちる。とちった箇所をそのままにしておくというのはリアルさを表現しているつもりなのか知らないが、全体に演劇的な照明、演出で、リアルな質感はあまりない。むしろセリフをつっかえつっかえするたびに、見ているこちらはこけそうになり、最終的に拙いという印象しか残らない。どう見ても学生芝居といったノリである。そう言えば大島渚は学生演劇出身だったななどと変なことに思いを馳せてしまう。結果、大島作品らしい雑な作りになってしまっている。
 映画に対してはいろいろな考え方があるだろうが、映像というものがもっともリアルな表現が可能な媒体であることを考え合わせると、やはりリアルさを損ねるのは致命的だと思う。もし意図的に演劇的なタッチを出すというのであれば、(リアルでない)演劇的なレベルでリアルにしなければならないと思う。リアルさを排除した演出にするのであれば、そのレベルでリアルであることが必要。これだけ雑に作られてしまうと、舞台裏を撮影したドキュメンタリーならともかく、完成品としては問題ありではないかと思ってしまう。
 こういうものが映画として認知され、しかも「新しい波」として受け入れられたこと自体、当時のちょっと突っ張った世相を反映しているように感じる。この映画自体が、このストーリーの中で批判の対象になっているような勢力、人々(学生運動や社会運動を自分勝手に先導し周囲を攪乱した人たち)となんとなく結びついているような感覚すら覚え、あまり良い気持ちがしなかった。

追記1:この映画には「1961年、日米安全保障条約に反対する安保闘争を舞台にした作品『日本の夜と霧』を、松竹が大島に無断で自主的に上映中止したことに猛抗議し、同社を退社。」(Wikipedia日本版より)というようないきさつがあったらしい。この映画が「反骨の作品」として注目を浴びたのはこういう要因があったのかも知れない。結果的にこのエピソードが、この作品ひいては大島渚のプロモーションになったと言えなくもない。
追記2:昨日(2011年11月1日)、本作の脚本を担当している石堂淑朗氏が亡くなりました。ご冥福をお祈りします。
★★☆
by chikurinken | 2011-12-02 08:32 | 映画
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