木村政彦はなぜ力道山を殺さなかったのか
増田俊也著
新潮社

物騒でセンセーショナルなタイトルではあるが、中身は綿密な取材に基づいて書かれた評伝である。
木村政彦という人は、戦前から戦後にかけて柔道界に君臨し、「木村の前に木村なく木村の後に木村なし」とうたわれたほどの猛者である。戦後、プロレスに身を転じ、国際プロレス団という団体を旗揚げするが、その後、日本プロレス協会を旗揚げした力道山と「日本選手権」を戦うことになる。プロレスであるため「両者引き分け」という筋書きが作られていたが、試合中、力道山が突如裏切り、殴る蹴るの暴行を(リング上で)木村に働き、結果的に力道山が勝利した。神のような存在の木村を倒したことから、これを境に力道山のプロレス団体は栄華を極めるが、木村政彦はマスコミから異常とも思えるほどのバッシングを受け、日本に居づらくなったためか、海外でプロレスに参戦することになる。
大筋はこういう感じで、このあたりの事情は、格闘技ファンなら知っているような割合有名な話だが、一般的には力道山の方が強かったから結局は仕方がないという見方が大勢を占めていたと思う(僕もそう思い込んでいた)。しかし事実は逆で、当時の木村政彦の強さといったら桁外れだったらしく、その名声を力道山が卑劣な方法で奪い取ったというのが正しい……というのが著者の主張である。
そしてその(正しい)認識を伝え、木村政彦の汚名をそそぐために書かれたのがこの評伝である。そのために相当な取材を重ね、木村政彦という人間、そして彼が引き継いでいた柔道・柔術のDNAを徹底的に洗い出す。そのせいかどうかわからないが、資料収集と取材開始から執筆終了まで18年かかっており、連載(『ゴング格闘技』誌)も4年間に渡って行われた。実際本書は700ページに及ばんとする大著で、しかも8ポイント(あるいは7ポイント?)くらいの2段組である。全32章構成とかなりのボリュームであるが、濃密でしかも非常に読みやすく、柔道の歴史も、木村政彦の位置づけもよくわかる。ちょっと目からウロコの本である。
木村政彦は、死去したときもマスコミに「力道山に負けた男」という取り上げ方をされていたらしく、それが著者にとって屈辱的な思いだったという。そしてそういう木村政彦像を変えたいというのが本書執筆の動機だったというのだ。だが、木村死去後、突然木村政彦の評価が上がる。アメリカで開催されたUFCという総合格闘術(打撃も関節技もなんでもありの格闘技)のトーナメントで優勝したブラジル人柔術家、ホイス・グレーシーが、「グレーシー一族にとって木村政彦は特別な存在である」と発言したたためである。
本当に真剣で闘ったら誰が強いかというのは多くの格闘技ファンにとって大きな関心事で、それを実践に移したのがUFCなんだが、そこであまたの猛者を倒して優勝した(しかも2年連続)のが柔術家であったことは日本人ならずとも驚きであった。柔道がそんなに強いとは……という感覚である。
なぜホイスにとって木村政彦が特別な存在であるかというと、グレーシー一族の総帥、エリオ・グレーシーがかつて木村政彦に手玉にとられるようにして破れているためである。しかもマラカナンスタジアム(サッカー競技場)に数万の観衆を集めて行われた試合においてである。もちろん力道みたなズルをしたわけではない。実はこの試合は映像が残っており、それを見るとエリオが手玉にとられる様子がよくわかる。もちろんエリオは当時、異種格闘技戦で無敗を誇っており、少し前に日本の柔道家とも対戦して勝っている。今のトップの総合格闘家と比べてもまったく遜色ない実力者であったはずである(木村と一緒にブラジルに渡った加藤幸夫を破った試合の映像も残っていて、実力者であることが見て取れる)。こういうことを考え合わせると、木村政彦がいかに桁外れの実力を持っていたかがわかる。

僕もこの本を読んでいて、木村政彦の実力がいかにすごいかという記述があまりに多いんで少々辟易していたんだが、この映像を見てから一挙に考え方が変わった。はじめの方に大外刈りをエリオにかけるんだが、今見る大外刈りと概念が違うというか、相手を一挙にKOできるくらいの大技である。切れ味やスピードも桁違いな上、相手を頭から落とすようにして投げている。木村の若い頃、出稽古で、大外で何十人も失神させ、大外刈り禁止を喰らったというのもあながちオーバーな話でないということもわかる。しかもこの映像の頃、木村はすでに40歳を越え全盛を過ぎている。エリオの得意のはずの寝技でも、完全にエリオをコントロールしており、技のキレもすごい。

その木村が身につけていた柔道技がどういうルーツの技なのか、今の柔道とどう違うのかも、本書では詳細に語られている。
明治期、柔術・柔道の流派は群雄割拠の状態であったが、その中から嘉納治五郎の一流派である講道館が勢力を拡大していく。それに対して反講道館としてさまざまな柔術流派が集まって結成された武徳会(半官半民の公的な組織)が大きな勢力になり、他にも高等学校、専門学校(どちらも現在の大学に相当)の大会である高専大会を中心に勢力をなした「高専柔道」が、日本の柔道界の中心勢力になっていた。講道館は立ち技中心にルールをシフトしていき、高専柔道は寝技、関節技中心の実践格闘技に移っていく。また高専大会では、各高等学校、専門学校で独自の関節技の開発が進んだという。その流れをくむのが、グレーシー一族のブラジリアン柔術であり、高等学校の寝技を徹底的に身につけたのが、木村の師匠、牛島辰熊である。そしてその流れが木村に入っていく。そのため、木村は立ち技だけではなく、寝技も抜群で、立ち技からの寝技への移行や、当て身(打撃系の技)なども積極的に修得し、総合格闘術としての柔道を身につけていった。また体幹、筋力を鍛えることにも熱中し、木村の真の強さは腕力であるという人もいたという。
こうして柔道・柔術が全盛を迎えたのが戦前の状況で、その様相が一挙に変わったのが日本の敗戦とGHQの占領だった。柔道・柔術がGHQによって禁止されたのだった。そんな中、格闘術としての特徴を取り去ってスポーツであることを強調した今の柔道スタイルのみが生き残りを許された。それが講道館柔道で、こうして今の柔道の原型ができあがる。結果、立ち技中心で実践性の少ない柔道になってしまい、かつての実践柔道・柔術は地下に埋もれてしまう。同時に戦前もてはやされてきた柔道家は、柔道の禁止とともに職を失い、路頭に迷うことになる。
そんな中、かれらを結集して、柔道で食える方法を作ろうとしたのが、木村の師匠、牛島辰熊で、こうしてプロ柔道が生まれることになる(木村も所属)。最初の興業こそ盛況だったものの、興業の方法論もよく知らない素人集団だけにやがて存続できなくなる。木村はこうした中、勝手に新たなプロ柔道団体を称して渡米し、そこでプロレスにも参加。帰国後、みずからもプロレス団体を作る。同時期、柔道家の山口利夫と、元関脇の力道山も団体を作る。こうしてプロレス三団体時代が始まり、先の日本選手権を制した力道山の日本プロレスのみが最終的に生き残ることになる。
こういった日本格闘技界の流れがほぼ時系列で語られる。最初の章で、その後のハイライトシーンがダイジェストのように現れるというノンフィクションとしてはなかなか凝った作りになっていて、語り口も非常にうまい。日本の柔道史が網羅的に語られるので登場人物はやたら多いが、よく整理されている上、適宜説明が入るため、「こんがらがってどうしようもない」というようなこともない。さらに、極真空手の大山倍達にも結構な紙面が割かれていて、木村、大山、力道の関係もわかるようになっている。日本の近代格闘技史を俯瞰する好著であり、木村政彦の名誉挽回という初期の目的も達成できていると思う。
なお、力道山にコケにされた木村政彦は、失意の日々の後、母校の拓殖大学柔道部の指導に当たるようになり、その後、拓大柔道部は全日本学生優勝大会を制覇することになる。
追記:木村政彦の柔道の映像は、まったくといって良いほど残っていない。かろうじて木村のすごみを今に伝えるものが、エリオ・グレーシーとの一戦の映像である。YouTubeにもある。
YouTube『judo vs jujutsu』 また、エリオ対加藤幸夫戦も残っている。
YouTube『Helio Gracie vs Kato』 このあたり、日本から古流柔術がなくなってブラジルで生き続けていたのと同様、木村の真の価値もブラジルでしか理解されていなかったということなんだろう。
なお、例の力道山の裏切りの映像は、現在力道山側が編集したものだけが残されているという。木村が関節技を繰りだしたシーンは今は見れないらしい(本書の記述より)。
YouTube『Rikidozan vs Masahiko Kimura』第43回大宅壮一ノンフィクション賞
第11回新潮ドキュメント賞受賞
★★★★参考:
竹林軒出張所『七帝柔道記(本)』竹林軒出張所『七帝柔道記 (1)、(2) (マンガ版)(本)』竹林軒出張所『七帝柔道記 (3)〜(6) (マンガ版)(本)』竹林軒出張所『VTJ前夜の中井祐樹(本)』竹林軒出張所『四角いジャングル 激突!格闘技(映画)』竹林軒出張所『沢村忠に真空を飛ばせた男(本)』竹林軒出張所『買った、見た、ふるえた……キックの鬼 最終章』竹林軒出張所『真空飛び膝蹴りの真実 “キックの鬼”沢村忠伝説(本)』竹林軒出張所『完本 1976年のアントニオ猪木(本)』竹林軒出張所『柔道一直線 (1)、(2)(ドラマ)』