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竹林軒出張所

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『原発事故への道程 前編』(ドキュメンタリー)

シリーズ 原発事故への道程 前編 置き去りにされた慎重論(2011年・NHK)
NHK教育 ETV特集

『原発事故への道程 前編』(ドキュメンタリー)_b0189364_9112654.jpg 日本に原子力発電がどのように導入されたか、その歴史を振り返るシリーズ。
 材料として使用されるのは「原子力政策研究会」の録音テープで、日本の原子力推進にかかわった人々がこの会合で語った講義録である。この番組、内容的には派手さはまったくなく正直言って退屈な部分も多いが、それでも日本の原子力がどのように導入され、どのように推進されたかがよくわかるようになっている。

 ことは1951年のソ連の原子力の産業利用(初の原子力発電の実現)に始まる。これを承けて、アイゼンハワー米大統領が国連で「原子力の平和利用」を訴えたことがそもそものスタート・ラインである。当時、米ソ冷戦時代で核兵器は増加の一途にあり、平和利用という題目は相手国に対する牽制なわけでもある。一方で、特に日本国内では当時電力不足は深刻で、計画停電は日常的に行われ、電気の安定供給は政界、産業界の悲願であった。そんな折、日本でも、この新しいテクノロジーである原子力発電を始めるべきという議論が一部の政治家から出てくる。当時、日本では米国の占領が終わった時期で、原子力研究を再開できるようになったのもその追い風になったようだ。ただし、依然として被曝の記憶が強く残っている時代で、学界内でも原子力に対する反発は強く、結局学界では、原子力研究に対する慎重論が支配することになる。
 そんな中、原子力推進を謳う政治家を中心として、政治サイドから、原子力の研究を進めるよう圧力がかかる。しまいには結構な予算まで付いてしまい、官僚側も使い道がわからないといったありさまで、官も学も手探りで原子力研究にとりかかるという状況になる。これが1950年代終わり頃の話である。
『原発事故への道程 前編』(ドキュメンタリー)_b0189364_9115562.jpg この時点では、官も学も原子力の研究を進めることで自前の原子力発電産業を築くことが前提としてあったが、当時国務大臣を務めていた正力松太郎が、海外の既存の原子力発電設備を輸入して、すぐに導入するよう大きな圧力をかけてくる。こうしてそれまで支配的だった原子力慎重論は一挙に払拭され、政治主導で原発導入が強引に進められることになるのであった。
 そこに飛びついたのが商社で、当時戦後の財閥解体で大ダメージを受け、存続の危機の瀬戸際にあった三井、三菱も、復活のチャンスとばかりに原子力取引に乗り出してくる。これが原子炉導入の推進力として機能することになる。
 やがて研究炉JRR-1が建設され、それに続き、初の商業炉、東海発電所が築かれることになるが、そもそも日本に原子力研究の蓄積がないため、どちらも当初からトラブル続きで、関係者に原子力の困難さを印象づけることになったのだった。そういうこともあり、原子炉のみならず、すべての設備を外注で(GEなどの海外メーカーに)作らせるというターンキー方式が主流になったのもこの時期である。
 さらに、当時の原子力発電はコスト的に火力発電に太刀打ちできなかったため、大幅なコスト節減が求められることになる。当初、福島第一原発の立地予定地が高台にあったにもかかわらず、大地を20m削って海面近くに建設したのも、建築費の節約を図るためであった。また、小型化してコストを大幅に削減したMark I型原子炉を導入したのも、コストが重要な要素になっていたためである。

 正力松太郎を中心とする強引な政治主導、原発を作ることを大前提にした結果もたらされたコスト削減とそれに伴うリスク増大、そういったものが先の福島原発事故につながったということが、このドキュメンタリーでよくわかる。もちろん当時、原発の危険性が関係者にどこまで理解されていたかはわからない(政治家たちは危険性についてまったく知らず「夢のエネルギー」と思っていたフシがある)が、歴史を振り返ることで、問題の原因が少しずつ見えてくるというものである。
 シリーズの後半(次週)は、原発の危険性が徐々に明らかになっていく中で、それに歯止めがかけられない状況が紹介される……ようだ。次回は9月25日夜10時からNHK教育で放送される予定である(『シリーズ 原発事故への道程 後編 安全神話の誕生』)。
科学ジャーナリスト賞2012大賞
★★★☆
by chikurinken | 2011-09-23 09:09 | ドキュメンタリー
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