家族と側近が語る周恩来(2011年・NHK)
第三章 決意〜窮地の外交〜
最終章 犠牲〜命尽きるまで〜
NHK-BS1
昨日の『家族と側近が語る周恩来』の続き。
第三章は、周恩来の外交面での業績。一時期、首相と外務大臣を兼任していた周恩来であるが、外交面での実績は驚異的である。中ソ友好同盟相互援助条約に始まり、その後の米国との関係改善、日中共同声明など、中国の外交を劇的に変える役割を果たしている。特に日本との関係改善は、まさに劇的で、日中関係改善の徴候が見えてから日中共同声明の調印に至るまでわずか数ヶ月で話をまとめ上げている。これも実質的には中国側、周恩来周辺がまとめた懸案である。しかも、自らの主張は極力維持していくが同時に交渉相手を窮地に追いつめないようにするという「大人の対応」で交渉を進めていたという。当時、まだ子どもだった僕が持っていた中国の印象は「大人」というものであったが、これは周恩来に由来するものだったのだとあらためて感じた(ちなみに今の中国に対してはそういった印象はまったくない)。あの日中共同声明以来、日本では中国が「中華民国」から「中華人民共和国」に変わったが、子どもだった僕にとっても本当に劇的だったという印象がある。実際、歴史的観点から言っても、それまで敵対していた米国、日本との関係改善は、非常に大きな功績である。しかもこれが文革のさなかに行われたのだった。このドキュメンタリーでは当時の周恩来周辺のスタッフたちによってこのあたりの事情が語られるが、かれらのインタビューからは、周恩来に対する信頼や尊敬の念が伝わってくる。
最終章は、1973年に膀胱癌が見つかり1976年1月に死去するまでを扱う。実務を進めようとする周恩来は、文革を推進する一派にとって目障りだったらしく、四人組は何かにつけて走資派というレッテルを貼ることで周恩来批判を展開する。一方で周恩来は、鄧小平ら、かつて文革で失脚した政治家の復権を少しずつ進めていく。1975年には鄧小平が第一副首相に就任し、病気で伏せている周恩来の事実上の後継者になる。四人組は周恩来に続いて鄧小平も批判の対象にし追い落としにかかるが、政権内部にそういった緊張が続く中、1976年1月8日、ついに周恩来が死去する。その数ヶ月後、周恩来を追悼する集会が天安門広場で自然発生的に行われるが、これは四人組が禁止していた行動であった。民衆による反文革の意思表示が、周恩来の追悼という形で顕在化する。さらにその数ヶ月後、今度は毛沢東が死に、後ろ盾を失ったこともあって四人組はついに逮捕され失脚することになる。こうしてとうとう文革が終結することになった。それはまさしく周恩来の遺志で、死んだ後もその影響力を行使したかのようである。
死ぬまで(そして死んだ後も)民衆のために身を粉にして働いた周恩来の業績、そしてその人となりが、身近な人々の口から明らかにされていくドキュメンタリーで、中国史の貴重な記録になっている。自分の中で確固とした周恩来像を(またその他の政治家像も)打ち立てることができるという、そういった優れたドキュメンタリーであった。
一人の政治家の視点から中国現代史を描くという試みも成功しているし、それに何より、文革推進派と実務派とのスリリングな攻防も見応えがあり、合計4時間という長いドキュメンタリーでありながらまったく飽きることがなかった。
★★★★参考:
竹林軒出張所『家族と側近が語る周恩来 (1)(2)(ドキュメンタリー)』竹林軒出張所『シリーズ毛沢東(ドキュメンタリー)』竹林軒出張所『文化大革命50年 知られざる“負の連鎖”(ドキュメンタリー)』竹林軒出張所『日中外交はこうして始まった(ドキュメンタリー)』竹林軒出張所『日中2000年 戦火を越えて(ドキュメンタリー)』竹林軒出張所『日中“密使外交”の全貌(ドキュメンタリー)』