僕は、自分が死ぬことには抵抗を感じていない方だと思うんだが、ただ殺人や虐殺などといった悲惨な死に方は嫌だと思う。
だから幽霊とか怨霊とかの類には理解がある。残虐な殺され方をした人の気が晴れるなら、霊的なものでかれらの気が休まるなら、それはぜひこういったものがあってほしいと思う。ただ、僕に霊感というものが欠けているせいかわからないが、テレビで大げさに騒いでいるような「霊的なもの」を感じたことが今までほとんどない。「ほとんど」というのは、昔「怖いな」と感じたことがあるために使った言葉であり、要するにこちらの気の持ちようだと気付いてからはまったくそういうことがなくなったのである。もちろん、怨霊に出会いたいと思っているわけではないが、それで浮かばれない人が救われるのなら、亡霊も存在してほしいという気持ちは常にある。
そういう人間なので、相手が虫であっても殺したり傷つけたりするのには相当気が引けるのである。蚊やスズメバチなど攻撃的な昆虫であれば、こちらも割り切って逆襲するが、特に攻撃性がないものについては極力殺生したくないと思っている。これは、僕が心優しく人道的であるためではなく、殺された虫を自分と重ねて見るようなところがあるためである。単純に、自分が虐殺されたくないから虫も虐殺したくないという、ただそれだけのことである。
いつも活動している場所が半田舎みたいなところなので、死んだ昆虫を目にすることは比較的多い。のたれ死にした蝉などは天寿を全うしたみたいで「大往生」という言葉さえ思い浮かぶのだが、車にひかれてぺちゃんこになった虫は本当に哀れに感じる。僕自身、自転車に乗っているときに、目の前のバッタをよけようとしたにもかかわらず轢いてしまったことが過去何度かある。とても嫌な気持ちになるんで、今は徐行しながら車輪をバッタに極力近付けないように注意している。おかげでここ数年はバッタ轢き逃げ事故は皆無で、無事故優秀ドライバーとして表彰される日も近いのではないかと思っている。
秋になると、潰れたバッタが路上のあちこちに散らばっていて哀れを誘う。
前に出て バッタバッタとひかれおり
寒くなり始めてやっとバッタがいなくなったかと思うと、今度はカマキリが大挙して路上に押し寄せる。
バッタ去り ひかれる主役 蟷螂(とうろう)に
ある晩秋の日、スズメバチの死骸が舗装道路にポツンと落ちていて、少しドッキリとした。攻撃姿勢を保っているように感じた。
武装せるスズメバチ 一人行き倒れ
夏は夏で、川に敷き詰められた小さい舗道(サイクリングロード)に大量のミミズが死んでいる。少し前まで野原だったところで、ミミズにとってははなはだ迷惑な話だが、おそらく早朝、道の向こう側に渡ろうとして、のぼる太陽の光にやられたんだろう。どれも乾燥してしまっている。見通しが甘かったようだ。
渡れると思ったか ひからびたミミズ
以下は同じく死んだ虫を詠んだもので、再録(
「昨日の歳時記 蝉のはなし」)。
ゆく夏や 蝉のなきがら経の声