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竹林軒出張所

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夏休みが終わります

 夏休みが終わります。
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 暑い夏休みが終わります。
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高野文子『絶対安全剃刀』「玄関」より

 夏の終わりになると、いつもこのマンガを思い出します……
by chikurinken | 2011-08-31 09:15 | 日常雑記

『フリーター、家を買う』(1)〜(10)(ドラマ)

フリーター、家を買う。(2010年・フジテレビ)
演出:河野圭太、城宝秀則
原作:有川浩
脚本:橋部敦子
出演:二宮和也、香里奈、井川遥、丸山隆平、大友康平、坂口良子、竹中直人、浅野温子

b0189364_7413797.jpg 有川浩の小説をドラマ化したもの。
 最初に新聞広告で『フリーター、家を買う』というタイトルの本について知ったとき、てっきりノンフィクションかと思っていた。のちに小説だとわかったときも、あまり興味が湧かず、奇を衒った話なんだろうという程度の印象しかなかった。つまりタイトルに「?」ということで、確かに目を引くタイトルだが、おちゃらけた印象が伝わってきて、結局はマイナス要因になっているという感じがする。そのため、今回実際にドラマを見たところ、思った以上にしっかりしたストーリーだったこともあり、その点、意外さを感じることになった。
 主人公は、3カ月で就職先を辞め、実家でブラブラしている若者である。バイトもするが、嫌なことがあると辞めてしまうという今風なキャラ設定だ。だが、自宅で一緒に暮らしている母親が欝病になってしまうところから話が急展開していく。これをきっかけに、やがて仕事に対しても真摯に取り組むようになり、自分の生き様も変えていって、人間的に成長していくというそういう話である。こうして書いてみると非常に単純でありきたりだが、プロットとサブプロットがあって、さまざまな面が同時進行しながらシンクロしていくというドラマの王道のような展開で、密度が濃い上にテーマもはっきりしていてわかりやすい。また、いろいろな部分にさまざまな仕掛けを施して展開を盛り上げる役目を果たしているため、見る側も飽きることがない。総じてよくできたドラマという印象である。
 ただ、近所のいじめが原因で母親が欝病を煩う場面、つまり「家庭で起こる問題」のシーンは、少々重すぎて僕には負担が大きかった。もちろん話の展開上絶対に必要で、これがなければ炭酸が抜けたビールみたいな話になるのは重々わかるが、これだけで見るのをやめたくなるくらいの息苦しさを感じた。また、話の中の仕掛けについてもわざとらしさを感じるものがあり、いろいろ盛り込みすぎたかなというきらいはある。演出も多少オーバーな部分がある。だがしかし、全体を通してみると実に良くできた話で、登場人物もなかなかに魅力的。演出も大きな破綻はなく、安心して見ていられる。ただ浅野温子の演技がやや不気味で少しきついかな……という印象は最後まで残った……。
★★★☆
by chikurinken | 2011-08-30 07:42 | ドラマ

『銀座カンカン娘』(映画)

b0189364_7531565.jpg銀座カンカン娘(1949年・新東宝)
監督:島耕二
脚本:山本嘉次郎、中田晴康
出演:高峰秀子、灰田勝彦、笠置シヅ子、岸井明、古今亭志ん生、浦辺粂子

 1949年製作の和製ミュージカル。でも音楽性もエンタテイメント性も非常にショボイ。ストーリーも脚本も……まあデタラメである。『巴里のアメリカ人』が51年、『雨に唄えば』が52年にそれぞれアメリカで発表されたことを考えると、当時のミュージカルの彼我の差はあまりにも大きい。
 キャストは高峰秀子の他、(「東京ブギウギ」の)笠置シヅ子、(「アルプスの牧場」の)灰田勝彦、岸井明となかなか豪華。しかも若き日の古今亭志ん生も出演している。実はこれが一番の目当てだったんだが、志ん生がものすごく痩せていて、まったく(映像で見知っていた志ん生と)別人のようだったのには驚いた。志ん生は、映画の中で、稽古で『疝気の虫』を数十秒演じる他、最後のシーンで『替り目』を最初から最後までダイジェストで演じるということもやっている。これは、映画の1シーンとは言えなかなか貴重な映像である。だが落語の終わりにあわせて映画もいきなり終わるというのはあまりに唐突でいただけない。映画としては疑問符が10個くらい付く。
 またミュージカルにつきものの音楽の点でも、トロトロしたリズムの「銀座カンカン娘」が何度も何度も歌われて、メリハリも何もあったもんじゃない。こんなに何度も何度も「銀座カンカン娘」を聴かされると、「そもそも“カンカン娘”ってのは何なんだ!」とツッコミの一つも入れたくなる。
 そういうわけで映画としてはとんでもない代物ではあるが、動く(若き)笠置シヅ子や志ん生の映像は非常に貴重である。高峰秀子も魅力的で、そういった点は評価に値する。
★★☆

参考:
竹林軒出張所『眠れない夜iPodを抱えて』
竹林軒出張所『このところ高峰秀子映画が多いことについての弁明』
by chikurinken | 2011-08-29 07:56 | 映画

『北斎漫画』(映画)

b0189364_8215043.jpg北斎漫画(1981年・松竹)
監督:新藤兼人
原作:矢代静一
脚本:新藤兼人
出演:緒形拳、西田敏行、田中裕子、樋口可南子、乙羽信子、フランキー堺

 浮世絵師、葛飾北斎の生涯を描いた伝記映画。
 題材が題材だけに以前から見たいと思っていた映画なんだが、正直かなりガッカリした。セリフは説明的だし、特殊メイクは汚いし、演技もありきたりな上、演出も古いタイプのもので面白味がない。前半が中年期、後半が老年期になっているが、こういう構成もあまりに説明的で、ドキュメンタリーの再現映像を思わせるようなものである。NHKでかつて放送された伊藤若冲の再現映像(竹林軒出張所『神の手を持つ絵師 若冲(ドキュメンタリー)』参照)とさして変わらない(クサイ演出が少ないだけ若冲の方がマシか)。
 唯一意欲的と思えたのが「蛸と海女」を再現したエロティックなシーンである。他にも田中裕子と樋口可南子の裸が随所に出て来て、そのあたりは面白い箇所ではあったが、後は本当に取るに足りない映画だった。
 新藤兼人の映画は、良いものは非常に良いが、ダメなものは本当にルーティン・ワークといった感じの面白味のないものが多いような気がする(シナリオも同様)。当たり外れの多い監督である。

追記1 北斎を演じる緒形拳と、曲亭馬琴を演じる西田敏行は、『おろしや国酔夢譚』でも主演、助演の関係だったが、映画の生ぬるさまであの映画と共通している。
追記2 フランキー堺は後に映画『写楽』の企画総指揮をやり蔦屋重三郎を演じたほど写楽マニアだったらしいが、この『北斎漫画』への出演がもしかしてきっかけになったのだろうかなどと勝手に想像した(この映画では北斎の義父、中島伊勢を演じている)。真偽は不明。
追記3 ロケ地:岡山県倉敷市(美観地区)。
★★☆
by chikurinken | 2011-08-28 08:23 | 映画

『原発を終わらせる』(本)

b0189364_8195927.jpg原発を終わらせる
石橋克彦編
岩波新書

 岩波新書から出た現時点での原発問題の集大成と言ってもいい論文集。
 「福島第一原発事故」、「原発の何が問題か -- 科学・技術的側面から」、「原発の何が問題か -- 社会的側面から」、「原発をどう終わらせるか」の4部構成で、執筆陣は、石橋克彦(竹林軒出張所『大地動乱の時代 地震学者は警告する(本)』参照)、田中三彦、後藤政志(竹林軒出張所『アメリカから見た福島原発事故(ドキュメンタリー)』参照)、鎌田遵、上澤千尋、井野博満(竹林軒出張所『福島原発事故はなぜ起きたか(本)』参照)、今中哲二、吉岡斉(竹林軒出張所『原発と日本の未来 原子力は温暖化対策の切り札か(本)』参照)、伊藤久雄、田窪雅文、飯田哲也、清水修二、諸富徹、山口幸夫の14人。さながら原発問題のオールジャパンといったラインナップである。
 最初の節(田中三彦著)では、福島原発事故の際、冷却材喪失以前に配管の破断事故が起こっていたのではないかという説が展開される。専門的な略語が飛びかうのでわかりやすいとは言えない(正直わかりにくい)が、それでも内容は斬新で面白い。サッカーにたとえるなら、パスワークは冴え渡るがゴールの臭いがしないというような立ち上がりである。その後、後藤政志、上澤千尋による原発の構造の話でやっとボールが落ち着いたというイメージで、さらにその後、井野博満(金属材料学)による玄海原発1号炉の破断の可能性が、科学的論拠を交えて(わかりやすく)説明される。これは、「ロベカルの超ロングシュート」並みのものすごいインパクトで、非常に寒気のする話であった。石橋克彦による地震学から見た日本の原発の危険性の指摘もインパクトがあり、どちらかというと渋いゴールという趣である。吉岡斉、伊藤久雄の行政面からみた原発の現状も非常に興味深い。個人的には現在もっとも関心のある領域で、この2人の論は、強力なボランチを思わせるような心強さを感じた。諸富徹が主張する、今後のエネルギー政策転換の論も示唆に富んでいる。中には(バイエルンミュンヘンに移籍した)宇佐美のビッグマウスのような論もあるが、全体を通じ多岐に渡って論が展開されており、しかもどれも専門的な知識に裏打ちされていて説得力がある。ただし、1冊の本として見た場合、全体としての統一感がいくぶん欠けている上、各論者ごとに内容が重複する箇所も多少ある。強いて言うならオールスターにありがちな不統一感で、さながらジーコ・ジャパンみたいな感じだろうか。とは言え、強力なストライカー、アイデアにあふれた中盤、堅実な守備を備えた、「岩波ジャパン」とも言うべき魅力的な代表チームで、W杯(原発全廃)も狙えるような超豪華布陣である。ある程度原発の知識がある人にお奨め。
(ご存知でしょうがサッカーの本ではありません。)
★★★★

◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇

 面白い記述が多かったので、今回も一部抜粋させていただく。

 そもそも、たかが発電施設にすぎないのに、非常な危険を内包する原発を大津波のおそれがある場所で運転しようとするのは、正気の沙汰ではない。これに関連しては、15メートルの津波を想定すべきだったとする日本社会の東電批判が、そういう想定のもとで原発を動かせというのであれば、技術過信に毒された迷妄だといえる。そんな場所からは撤退すべきなのだ。(中略)
 日本列島の原発は「地震付き原発」という特殊な原発なのである。危険性を制御しきれない「地震付き原発」は、生命と地球の安全と清浄のために、存在すべきではない。つまり、地震列島・日本における安全な原発とは、それが無いことである。(石橋克彦)

 この時点で格納容器ベントに失敗し、格納容器が圧力で爆発していたら、事態ははるかに厳しい状態になっていた。一号機が壊滅すると、放射能が強すぎて二号機、三号機にも近づけなくなり、二機ともやがて炉心溶融から格納容器破壊にいたり、さらに四号機を含む四機すべての使用済燃料が冷却不能になることまではほぼ一本道である。そもそも格納容器は設計上、炉心溶融に耐えるようになっていないからである。そうなれば、おそらくチェルノブイリ事故よりはるかに大規模な汚染になったと推測される。(後藤政志)

 ひとたびそれ(注:国家計画)に組み入れられれば、民間企業である電力会社やその傘下の公益法人・株式会社(日本原子力発電、日本原燃など)の事業もまた、国家計画の一部となり、官民一体となって推進すべき事業とされてきた。その場合、民間企業がみずからの判断で事業を中止したり凍結したりすることは困難であった。民間事業が国策協力という形で進められる以上、それに関する経営責任を民間業者が負わねばならぬ理由はなく、損失やリスクは基本的に政府が肩代わりすべきだという考え方が、原子力関係者の間での暗黙の合意であったとみられる。それが民間業者の継続的な関与を可能にしてきたが、無責任な経営体質の温床ともなってきた。(中略)
 原子力発電事業は、経済的に重大な問題をかかえている。また安定供給という観点からも事故・事件・災害に対する脆弱性という重大な弱点をかかえている。さらに大事故を起こせば世界最大級の電力会社でも支払えないほどの巨額の損失を発生させる。そのような事業について政府が拡大計画を推進し、それと抱き合わせで手厚い優遇政策を講ずることは、国民利益の観点から妥当ではない。民間事業を束縛する国家計画そのものを廃止し、また原子力事業に対するあらゆる優遇政策を廃止することが必要である。さらに「国策民営」体制を可能としてきた電気事業の発送電一体の全国割拠体制を解体する必要がある。(吉岡斉)
by chikurinken | 2011-08-27 08:23 |

『アメリカから見た福島原発事故』(ドキュメンタリー)

b0189364_1353138.jpgアメリカから見た福島原発事故
(2011年・NHK)
NHK教育 ETV特集

 先頃事故を起こした福島第一原発のMark I型原子炉に構造上の欠陥があることを示すドキュメンタリー。
 70年代中頃に、アメリカにおいて、Mark I型原子炉の欠陥が指摘された。この欠陥を告発したのは、この原子炉の設計に携わったゼネラル・エレクトリック(GE)の技術者である。本来、原子炉格納容器には、安全上相当な容量が必要であるが、GEの建設コストを低く抑えて競争力を高めるという発想により、非常に小さく設計され、それを補う目的で下部に圧力抑制室が設置された。ただ、この設計者によれば、この圧力抑制室自体、事故時に正しく機能しない可能性があるということであった。当初、業界がこぞってこの告発を無視し、結局押しつぶすことに成功したが、89年になってその欠陥が再認識され、NRC(アメリカ原子力規制委員会)によって、ベントという申し訳程度の設備を付けることが求められた。
 日本では、原発の安全性は天文学的な数値で高いということになっていたため、既存のMark I型原子炉の見直しも行われず、アメリカにならってベントが申し訳程度に付けられた。先頃の震災で、圧力抑制室が機能しなかったという事実は徐々に明らかになっているが、そもそもが欠陥品で、しかもそれはアメリカでも日本でも明らかになっていたという、そういうドキュメンタリーである。
 前半は、アメリカの技術者、NRCの委員、日本の当時の東電の社長や学者らにインタビューし、そのあたりの事情を明らかにする(いやしかし日本の関係者の無責任さ、GEの一部の人間の身勝手さにはホントにビックリする)。最後の20分は、小出五郎(科学ジャーナリスト)と後藤政志(元原子力プラント設計技術者)の対談があり、こちらも日本の原子力行政に対する数々の示唆が含まれていて面白かった。非常に興味深いので、長いが以下に一部引用する。
★★★☆
◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇

番組内の、小出五郎(科学ジャーナリスト)氏と後藤政志(元原子力プラント設計技術者)氏の対談より

小出:原子力プラントの設計をしていたというのはいつ頃でしょうか?
後藤:私は1989年から10数年に渡りまして担当してまいりました。
小出:ちょうど問題が指摘された情報が入ってきた後ということになりますね。VTR見ていただいたわけですけども。
後藤:実はMark I問題というのは、もちろん格納容器を担当しておりましたのである程度わかってたつもりでおりますが、これほど明確に80年代にMark Iは廃止すべきだと米国で言っていたというのは非常に驚きでした。
小出:しかしアメリカの方も何となく圧力がかかってうやむやに終わってしまって、地震がないところに建ってるから良いだろみたいなですね。
b0189364_13533566.jpg後藤:そうですね。日本ではそれがさらに柔らかく伝わってるわけですね。きちんとここで見ましたような形で受け止め切れていない。バイアスがかかったのかどうかわかりませんけども、少なくとも問題の深刻さという形では受け止めていない、といういうふうに思います。
小出:初めて聞いたということも……
後藤:部分的にはあります。
小出:そうですか。基本的な設計というところで問題点、指摘された情報というのはですね、どういうふうに扱われていたんでしょうか?
後藤:一般的には、原子力ではトラブル情報は海外で起こった情報も入るんですね。ですけど非常に多様な情報が入るんですけど、Mark I問題が日本できっちり受け止められたかというのは疑問を感じております。

信頼性と安全は同義語ではない
小出:私も日本で原子力関係の取材をしたときに「日本は違うのよ」という言葉をよく聞くんですね。「日本は違うんだ」と言ったときに外国でたとえばスリーマイルで起きたとか、チェルノブイリで起きたってときにそこから先が思考停止になってしまうというか、そういった「日本は違う」という考え方が現場に与えた影響というのはあるんでしょうか?
後藤:私は非常に大きいと思います。日本はもの作り、製造業が非常に発達していて品質も良いと言われております。つまり故障しにくいと言っていいかと思います。ですからものが故障しにくいから品質が良い、事故が起こりにくいというそういう論点だと思います。ただですね、それはですね、基本的な考え方としてはそれだけでは足りないんですね。信頼性、ものは壊れにくいということと安全ということは同義語じゃない。つまり壊れやすくてもですね、壊れたときに安全側にもっていく設計をとれば、安全にできる。ところが日本の場合にはですね、信頼性が高いために、逆に安全の設計の思想がね、根底が、私は不十分だと思っています。
小出:ひとつひとつについて自信があるためにそういうことになっていると……
後藤:ええ、逆にめったにトラブルが起こらないから安全であると誤解している。信頼性が高いことが安全性が高いと同義語に見てしまう、というふうに。
小出:大きな違いがあるわけですね。
後藤:と思います。
小出:重大事故をまじめに考えるという土壌がないというか、そういうところですね。
後藤:私はそういう印象を持っております。

原発の安全 事故と設定
小出:最悪の事態というのを日本はあまり考えない、そういうことは起こり得ないんだという、考えるところから全然外しちゃうわけですね。それから、過小評価する、もっと極端に言うとデータに基づかないで期待に基づいて何かしてしまうという、そういう雰囲気が現場に、関係者の間に充ち満ちていたんじゃないかと、そういう気がするんですけども、その辺、どうなんでしょうか?

事故の確率が低い 安全対策の思考停止
b0189364_13541145.jpg後藤:元々設定をするってことは、うまくいけば当たり前で良いわけですけど、うまくいかないことを想定してやっていくわけです。そうならないように。ですから基本的な考え方はやはり、最悪の事態っていうのはどこまでそれを閉じ込めるかというのが重要課題なわけです。一つ私が一番罪だと思っておりますのは、「確率論的安全評価」と表現しておりますけども、大規模な事故がほとんど起こりにくい、非常に確率が小さい、確率が小さいからそこから思考停止してしまうという構造になっているんじゃないかと。そのことが一番問題だったんじゃないかと私は思っています。

確率論は安全の哲学を欠く
小出:確率が小さいから無視しても良いという……。
後藤:確率が小さいということはですね、たとえばものを作っているときに何個かに1個失敗しちゃうという、工場の生産ラインですね。品質がどうで故障率がどうこうっていうときには良いと思うんです。ですけど大規模な事故が起こったような場合はですね、その事故がどれだけインパクトがあってそれが良いかどうか受け入れ可能かどうかっていうのが判断基準になると私は思うんですね。そのことを無視して確率が小さいっていうのは、それはあのきわめて危ない考え方、安全に対する哲学を欠いた考え方というふうに理解しております。
小出:つまり確率が小さいということは起こらないはずだと。
後藤:期待を持っているんですね。

核兵器と原発 秘密主義の体質
小出:起こらないはずだが、いつの間にか起きない、起きないから備えないというふうにどんどんどんどん行ってしまう。
後藤:よく言われるんですけど、想定しうることですね、ロジカルにこうなったらこうなってこうなってという積み重ね、外的な要因も機械の故障も人間のミスも含めまして、それでシナリオを書けるということはその事故は起こりうると考えるわけですね。ですからそれに対しては解釈は関係ないわけです。確実にここから手を打たなければいけないというのが安全に対する考え方です。私が一つ気になるのは、核兵器との関係で気になっているのは、今の、情報が出てこない体質がありますよね、原子力で。あれは私は核技術と関係があると思うんです、基本的に。ですから設計情報も直接は出さないようにしてきてるんですね。そうすると、自然と秘密主義になってくるわけですね。それは公開の原則からいったらいけないんですけども、安全の面からいっても情報共有をしにくくなってるんです。非常に危険なわけですね。私自身も現役のときに、こういう事故の時にそういうことは議論したんですけども、やはりあのそういう議論ってのが現場の技術者同士でですね、素直にできるかっていうと、なかなかそうではない。非常に難しい。ある分野ではやっていてもちょっと離れた分野でまったく関係なくなる、そういう関係……。

原子力技術 分業と縦割り
小出:それはなぜですか?
後藤:よくわかりませんけど、一つは分業がはっきりしていることですね。私の仕事は格納容器です、あとはこうです。それぞれの分野があって、そこに入っていることはやりますけどあとはやらない。触れると怒られるんですよ、ある意味。越権行為ってありますよね。わたしもちょっとびっくりしたんですけども、若干そういう風潮なんですね。他の分野に踏み込むのは差し控えるというそういう傾向があると思います。
小出:たしかに縦割りが日本では本当に徹底していますから、お互いのことはあまり言わないでそれぞれで頑張って努力してますよと。お互い干渉もしないしっていうことなんですが、どうですかね、そういう……
後藤:昔はそうではなかったように思うんですね。私の場合昔っていうのは原子力に入る前だったんですけども、境界はありますけど、結構踏み込んで、分野が違った技術者同士の交流が結構あったように思うんですね。だんだんそれが薄れてきているという傾向はあると思います。
小出:いろいろな情報が日本に来たけれども、それが活かされていない。それは原子力を推進すること全体に関わってくる問題で、これはよく言う「原子力村」っていうような言い方と非常に深く関わってるんじゃないかというですね。私は原子力村って言うのは五角形の構造をしていると。原子力村のペンタゴンと言っているんですけども、1つは官庁、官僚ですね、それから政治家、そして企業とその労働組合、それから学者、そしてメディアっていうのがある。その5つを頂点とする五角形で、それがお互いにこうつながって。日本の大きなプロジェクトというのを考えると、結構同じ構造をしていて、非常に効率が良いということにもなっているわけですけども。村っていうのは、村の特質というものがあって、1つはその村には習わしというのがあって、それが一つの「長いものには巻かれろ」っていうような村の掟で、それはあまり議論をしないであうんの呼吸で進めていくということですよね。さらに、村の中で批判があると「村八分」というのがあって追い出しちゃうという。するとその、あまり議論をしない雰囲気があって、あうんの呼吸で事を進め、批判をしあわないで外に出してしまう、村八分にしてしまう、そういう構造というのが原子力村にもあるし、他の村にもあるけども、そういった構造自体がやはり縦割りを徹底させていくということで進んでいったんじゃないかと思いますけど。

原子力とタブー
後藤:そういう面では、分業、縦割り分業というだけではなくて、原子力の場合はタブーが多いわけですよね。要するに、たとえば格納容器の設計をするときに、格納容器が壊れるということが正面に出ちゃいけない。そういう表現はしない、あるいはそういうデータをできるだけ出さない、というのが原子力界では常識なんですね。自然とそうなってくる。それを言うというのは結構はばかられるところがございまして、たとえば論文一つ出す場合にもそういうところに気を遣って出すわけですね。壊れるってことが表に出にくいというか、あまりそういうことが出ないように配慮する、そういう傾向があるんですね。それは、基本的な技術のあり方としては、不幸な、危ない状態になるわけですね。つまり本質的な問題がお互いに情報共有できないってことですから、それが最初はそれほど目立ってなかったんでしょうけど、ずっと長い間それをやっている間に、体質が、そういうある種の秘密体質ができちゃって、自ら自分たちが、本当は安全だと思ってたわけじゃないけど、安全だと思うように勘違いするというか、そういうふうに思えちゃったんじゃないかと私は思っているんですね。
小出:私たちメディアも、そういう原子力村の構造の中で、ある部分加担してしまっていたようなところが完全になかったかって言うと、忸怩たるものがないわけではないし、いろいろ問題点は指摘してきたつもりだけども、それでもやっぱりそういう気がする。中に入ってらっしゃる技術者の方もやはり同じような思いというのが……
後藤:そういう意味では私なんか中にいた人間ですからね、非常にそれは責任が重たいと、もっとも重たいと思っております、技術者として。ですから技術者として、自分の知っていることはきちんと言わなければいけないという思いがあります。

格納容器とベント
小出:もう一つベントの問題ですね。アメリカの方でもベントをつけると言うことで決着をさせるというところがありました。日本でも同じ装置をMark Iにはつけたんですよね。
後藤:Mark Iに限らず、基本的には格納容器はベントしなければならないというということになったわけですね。壊れてしまうからってことなんですけど、これは私は担当してましてビックリしたんですね。格納容器は放射能を外に出さないために設計したわけなんですね。それが圧力が上がったからといって放射能を外に出すわけですからね。これは、格納容器をやってきた人間からすると自己矛盾なわけです。しかしそういう事故シーケンスがあるってことで付ける。付けるということは放射能を出しますから、当然フィルターを付けると思うんですね。実際検討してたんです。どういうフィルターがあるかってことを。少なくともメーカーの中ではそういう議論をしていたんですけども、結果は付けなかった。フィルターが大型になるんです。ものすごく面積が広く目立つということもありましたので、電力会社はそれを付けないという方針をとったんです。しかもそれは、安全委員会の方でそういう事故は起こり得ないと言っているわけですから、義務化していないわけです。電力会社が自主的に、ベントは付けたけどフィルターは付けないという選択をしたんです。ただその関係については、非常に心が痛いんです。もし付けてたら若干緩和されますんで。

信頼性の低い安全対策、設備
小出:しかし今回ベントを開くということだけでも随分手間取りましたよね。
後藤:普通はあそこには少なくとも最低2つ、直列のバルブを開かなければならないんですけど、1つ目はやっと開くことができんだけれども2つ目がなかなか開かなくて大変だったらしいんですね。結果としては開いたんですけど、普通のシステムですと、あそこの部分はですね、もし開かなくて爆発して問題になるってことはそれこそないように多重化して、これがきかなかったらこれっていうふうにバックアップを作るわけです。ですけど、この対策っていうのは本気じゃないんです。絶対起きないと思っているわけですからね。信頼性の高いものになっていないんです。ですから他のプラントの中のシステムとはレベルが違うんです。ですから今回、あれが開かずに爆発してしまうという可能性も高かったんです。そういう設計なんです。
by chikurinken | 2011-08-25 13:55 | ドキュメンタリー

原子力に反対なら電気使うなて、そないな無茶ぁ言われても……

 3カ月前にNHK-BS1で放送された『ドキュメンタリーWAVE 地中海・難民島〜ジャスミン革命は何をもたらしたのか〜』というドキュメンタリーを、遅ればせながら昨日見た。先日チュニジアで起こった民主化運動、ジャスミン革命に対する市民の見方・感じ方がよくわかって、そういう意味で面白かった(ドキュメンタリーとしては随分もの足りないものであったが)。
b0189364_1084852.jpg 民主化運動というのは西側諸国では一般的に歓迎されるもので、もちろん市民にとっても歓迎すべきものなんだろうが、しかしほとんどの市民にとっては、無職の生活に変わりなく、それどころか革命騒ぎのためにそれまで主要産業であった観光も振るわなくなり(チュニジアは観光収入が国家の収益の6割だそうだ)、むしろマイナスに作用しているようである。そういう現状に絶望して、ヨーロッパに亡命する人が後を絶たないという。もちろん、地中海を渡る船に乗りこむのもそれ相応の費用がいる上、しかも途中で命を落とす危険性もある(実際に沈没による犠牲者が多数出ている)。本当に民主化されれば、長い目で見て市民にも良い作用が働くはずだが、だからといって現状がそれで改善されるものでもなく、市民にとっては内心忸怩たる思いというところか。一筋縄ではいかないものだ。リビア情勢も目が離せない。
 あさて、こちらの日出ずる国ではなんと、テレビ放送の内容が気に入らないから(しかもドラマ!)変更しろなどというデモが行われたらしい。どんなデモやろうと勝手ですけどね、なんというか、志が低すぎ、と思う。日本でも今現実に、核の問題が発生していて、いまだに危険な状態が続いているのに「ドラマが気に食わない」だからね。
 まっとうな感覚から言えば、そんなに気に入らないんだったら見なけりゃいいだろ!ということになる。言っておくが、原子力推進の人間がよく言う「そんなに原子力に反対するんだったら電気使うな!」という暴論と一緒にしてもらっては困る。また「そんなに日本政府のやることが気に入らないんだったらよその国に行け!」というのともまったく違う。「電気を使わない」、「国外に亡命する」という選択肢の重さと、「テレビのチャンネルを変える」という選択肢の重さが比較できないのはここで申し上げるまでもあるまい。国外に亡命する、または移住するというのは、チュニジア人のケースを取り上げるまでもなく、命がけまたは現時点の生活全般を犠牲にする覚悟の上で行われるものである。また電気を一切使わないということになれば、今の生活自体をすべて完全に変える覚悟が必要になる。一部の電気産業が市場を完全に独占している現状では、「電気は使いたいが核エネルギーの電気は使いたくない」と思っている人でも他に選択肢がないのが実情だ。つまり、行政に対して、現在や将来の生活を犠牲にする(可能性が大きい)核(原子力)エネルギー政策をやめてもらいたいと思っている(これは行政にとってもまったく無茶な選択肢ではないよ)わけで、そういう人間に「電気使うな」「出ていけ」などというのは荒唐無稽以外の何ものでもない。そもそも議論の対象にすらならないと思うがどうだ。
 こういうものとテレビ番組が比較にならないのは明らかである。韓国のドラマがそんなに気に食わないなら見なきゃそれで済むじゃないか。現に僕だってそうしてる。悪いが、今放送されているほとんどの韓国ドラマ、見るに値しないくらい低レベルだと思っている。今まで何度かトライしてみたが、あまりの質の低さに失笑するくらいである。よくこんなのが人気あるなと思う。だからまあ一切見ない。すべてのチャンネルで韓国ドラマを1日中放送していたら、そりゃ不満も出てくるかも知れないが、実際はそんなことないわけで……まああるわけもないが。それに今どき、テレビ以外に娯楽はいくらでもあるだろう。一部で「公共の電波を使っている責任」云々という議論もあるが、今まで特定の野球チーム・サッカーチームの試合だけをゴリ押ししてきた放送局や、詭弁を使って原子力を積極的に推進してきた放送局もあるわけで、何も今に始まったことではない(こういう人達はそれについては批判してないようだ)。日本の放送のレベルがそれだけのものに過ぎないということで、改善できればそれに越したことはないが、視聴率で動いている日本の放送体制であれば、視聴率がとれるからそれを放送するというのもある意味致し方ないと思う。結局、それを面白いと感じるかどうかは好みの問題ということになる。それこそ、このドラマがイヤだからあのドラマを放送しろなどと言われても、多くの人は「あのドラマなんか見たくねえ」と思うかも知れない。実際、ここ20年ほどの日本のドラマの質の低さといったら、本当に目も当てられないくらいだ。最近、何となく改善の動き(作り手としての真摯な態度)が見えるのが救いだが、韓国ドラマの代わりにあの頃のくだらないドラマを放送しろという主張であるならば、僕は真摯に「バカメ」と思う。それこそ自分の好みをゴリ押ししてるだけじゃないか。
b0189364_1092440.jpg 一つ加えておくが、かれらはフジテレビが韓国ドラマばかり放送していると主張しているようだが、BS日テレの方がすごいぞ。午前、昼、午後、夜、韓国ドラマで、残りの多くが通販番組だ(『BS日テレ番組表』参照)。公共の電波を使ってこれだ。だがこちらに対する抗議というのは上がってない。かれらがやってるデモなんてこの程度のもので、「公共の電波」云々というのは所詮後付けの理屈に過ぎない。「これはキライだから他のオモチャを買ってくれと言っている駄々っ子の図」を思い浮かべるのは僕だけではあるまい。

参考:『フジテレビに対する韓流偏重抗議デモ、中国メディアも大きな注目』(exciteニュース)
by chikurinken | 2011-08-24 10:13 | 社会

『家族と側近が語る周恩来』(3)(4)(ドキュメンタリー)

家族と側近が語る周恩来(2011年・NHK)
第三章 決意〜窮地の外交〜
最終章 犠牲〜命尽きるまで〜
NHK-BS1

b0189364_8511765.jpg 昨日の『家族と側近が語る周恩来』の続き。
 第三章は、周恩来の外交面での業績。一時期、首相と外務大臣を兼任していた周恩来であるが、外交面での実績は驚異的である。中ソ友好同盟相互援助条約に始まり、その後の米国との関係改善、日中共同声明など、中国の外交を劇的に変える役割を果たしている。特に日本との関係改善は、まさに劇的で、日中関係改善の徴候が見えてから日中共同声明の調印に至るまでわずか数ヶ月で話をまとめ上げている。これも実質的には中国側、周恩来周辺がまとめた懸案である。しかも、自らの主張は極力維持していくが同時に交渉相手を窮地に追いつめないようにするという「大人の対応」で交渉を進めていたという。当時、まだ子どもだった僕が持っていた中国の印象は「大人」というものであったが、これは周恩来に由来するものだったのだとあらためて感じた(ちなみに今の中国に対してはそういった印象はまったくない)。あの日中共同声明以来、日本では中国が「中華民国」から「中華人民共和国」に変わったが、子どもだった僕にとっても本当に劇的だったという印象がある。実際、歴史的観点から言っても、それまで敵対していた米国、日本との関係改善は、非常に大きな功績である。しかもこれが文革のさなかに行われたのだった。このドキュメンタリーでは当時の周恩来周辺のスタッフたちによってこのあたりの事情が語られるが、かれらのインタビューからは、周恩来に対する信頼や尊敬の念が伝わってくる。
 最終章は、1973年に膀胱癌が見つかり1976年1月に死去するまでを扱う。実務を進めようとする周恩来は、文革を推進する一派にとって目障りだったらしく、四人組は何かにつけて走資派というレッテルを貼ることで周恩来批判を展開する。一方で周恩来は、鄧小平ら、かつて文革で失脚した政治家の復権を少しずつ進めていく。1975年には鄧小平が第一副首相に就任し、病気で伏せている周恩来の事実上の後継者になる。四人組は周恩来に続いて鄧小平も批判の対象にし追い落としにかかるが、政権内部にそういった緊張が続く中、1976年1月8日、ついに周恩来が死去する。その数ヶ月後、周恩来を追悼する集会が天安門広場で自然発生的に行われるが、これは四人組が禁止していた行動であった。民衆による反文革の意思表示が、周恩来の追悼という形で顕在化する。さらにその数ヶ月後、今度は毛沢東が死に、後ろ盾を失ったこともあって四人組はついに逮捕され失脚することになる。こうしてとうとう文革が終結することになった。それはまさしく周恩来の遺志で、死んだ後もその影響力を行使したかのようである。
 死ぬまで(そして死んだ後も)民衆のために身を粉にして働いた周恩来の業績、そしてその人となりが、身近な人々の口から明らかにされていくドキュメンタリーで、中国史の貴重な記録になっている。自分の中で確固とした周恩来像を(またその他の政治家像も)打ち立てることができるという、そういった優れたドキュメンタリーであった。
 一人の政治家の視点から中国現代史を描くという試みも成功しているし、それに何より、文革推進派と実務派とのスリリングな攻防も見応えがあり、合計4時間という長いドキュメンタリーでありながらまったく飽きることがなかった。
★★★★

参考:
竹林軒出張所『家族と側近が語る周恩来 (1)(2)(ドキュメンタリー)』
竹林軒出張所『シリーズ毛沢東(ドキュメンタリー)』
竹林軒出張所『文化大革命50年 知られざる“負の連鎖”(ドキュメンタリー)』
by chikurinken | 2011-08-23 08:51 | ドキュメンタリー

『家族と側近が語る周恩来』(1)(2)(ドキュメンタリー)

家族と側近が語る周恩来(2011年・NHK)
第一章 試練〜新国家を背負って〜
第二章 苦渋〜文革の嵐の中で〜
NHK-BS1

b0189364_8154685.jpg 近代中国の発展を支えた政治家、周恩来。僕の中では、日中共同声明のときに田中角栄とがっちりと握手したのが非常に印象的で、「大人物の政治家」という印象がある。また、アメリカの政治家(もしかしたらジャーナリストだったかも知れない)が書いた周恩来についての記述(会食時の印象)をかつて読んだことがあり、そこでも「周囲に気を配ることのできる大人物」という描かれ方だったように記憶している。最近読んだ本では、毛沢東の補佐役として、暴走する毛沢東との間でバランスを取る役割を果たしてきたという描かれ方だった。共通しているのは、周恩来についてあまり悪く言う人はいないということである(少なくとも僕の知る範囲では)。
 このドキュメンタリーは、周恩来の家族と側近へのインタビューをつなぎ合わせ、周恩来の人物像を明らかにしようという試みである。家族と側近だけに、あまり悪し様に言われることはないだろうが、しかしそれでも周恩来の人物像は垣間見えてくるのではないかと思う。4回シリーズのドキュメンタリーで、NHKが製作しているため多分に日本から見た中国近代史という視点になる。

 第一章は、周恩来の若い頃から大躍進時代までである。周恩来夫妻には子どもがいなかったため、貧しい公務員だった弟の子どもたち(つまり甥と姪)を引き取って首相官邸で育てていたらしい。生活はあくまで質素であり、使わない電気が点いていれば消して回るような人だったらしい。私腹を一切肥やすことなく、実務家として仕事中心の生活を送っていたという姿が浮き彫りにされていく。特に第一章では、実務家としての側面が強調されており、国内産業発展のため、地方に実際に赴き現状を視察することを心がけていたという話が紹介される。実情をしっかり把握していたため、達成目標も堅実なものにするよう努めていたという。1950年代中頃の発展は、彼のこういった姿勢に支えられていたという。だが、その後、毛沢東が「大躍進」と称して無理な目標を設定し、地方に対して過剰な要求をしたため、結局数字の上でつじつまを合わせるといういかにも官僚的な対応が行われ、そのしわ寄せとして工業・農業が壊滅的な打撃を受けて、大飢饉を発生させることになる。その後60年代になり、その反省として毛沢東が一線を退き、周恩来や劉少奇、鄧小平らの実務家が、(今で言う)改革開放路線を取ることになる。そのためもあり、周恩来も食事を取ることもできないほど、多忙な生活を余儀なくされる。
 第二章では、毛沢東の巻き返しとして引き起こされた文化大革命によって、国内が混乱していく中、周恩来がどのように処世したかを描く。毛沢東が「造反有理」というキャッチフレーズで、反逆する学生たち(紅衛兵)を煽り、妻の江青を利用して、穏健派の政治家を粛正していく。ついには当時国家主席だった劉少奇まで逮捕させるほどで、当然のことながら周恩来の周辺も危なくなってくる。暴走に歯止めをかける意味でも、表面上は毛沢東支持を訴えながら、紅衛兵たちを(孫に対するように)我慢強く説得していた周恩来であるが、やがて実弟が紅衛兵に狙われる。結局、周恩来自身が弟の逮捕命令を出し、軍の施設に収監するんだが、実はこうすることで紅衛兵の暴走から弟を守っていたということが側近や甥姪の口から明かされる。同様に、次々に逮捕されていく実務派の政治家(かつての同僚)たちも、似たような方法で保護していたという。荒れ狂う嵐の中で、何とか活路を見出そうと身を潜める実務家という姿が明らかになっていく。紅衛兵の破壊活動により、産業は後退し文化財は破壊されていくが、そんな中、それへの対処も含め、当時首相を務めていた周恩来は、これまで以上に仕事に忙殺されることになる。
 ともかく、周恩来の実務家としての才能やバランス感覚、人物の大きさばかりが浮き彫りにされるドキュメンタリーで、見るこちら側の感覚(周恩来に対する印象)とも近いものがあるが、第二章の時点で「活き延びることこそ重要である」ということが強調されている。かつて『シリーズ毛沢東』(竹林軒出張所『シリーズ毛沢東(ドキュメンタリー)』参照)を見たときに、「文化大革命でアジテーション演説をぶつ周恩来」の図に違和感を持ったが、しかしこういう状況であればそれも致し方ないと思う。むしろ、自分の身辺が危険になっている中でも、バランス感覚を保ちながら破壊活動の事後処理に励んでいたという、そういう面こそ十分評価に値すると思う。大人物、周恩来の面目躍如である。
★★★★

参考:
竹林軒出張所『家族と側近が語る周恩来 (3)(4)(ドキュメンタリー)』
竹林軒出張所『シリーズ毛沢東(ドキュメンタリー)』
竹林軒出張所『文化大革命50年 知られざる“負の連鎖”(ドキュメンタリー)』
by chikurinken | 2011-08-22 08:19 | ドキュメンタリー

『告白』(映画)

b0189364_854918.jpg告白(2010年・「告白」製作委員会)
監督:中島哲也
原作:湊かなえ
脚本:中島哲也
出演:松たか子、木村佳乃、橋本愛、岡田将生、西井幸人、藤原薫

 随分気分が悪くなるストーリーである。映画としてはよくできていると思うが、だがしかし、このストーリーはちょっとどうかなと思う。
 端的に言えば娘を殺された女教師の復讐譚であるが、残酷な人間を残酷な方法で懲らしめるという、それだけの話である。そもそもこの原作が何を訴えたいのかがよくわからない。そういうものがない、ただ単なるエンタテイメント小説なのか。エンタテイメントだとしても僕は全然楽しめなかった。元々の小説はミステリーのようだが、ちょっと猟奇的なストーリーというだけで、登場人物もことごとく脳天気に残酷である。出てくるのは、性悪説を地でいくような人々ばかり。こういった悪人たちの内面を掘り下げてこそ映画ではないかと思うが、掘り下げるのは一面だけで、しかもそれも悪意のある掘り下げ方である。結局はストーリーの一部として利用しているだけで、どこにも血が通っていない印象がある。悪人に対して悪で対峙し、しかもそれを力(作者がストーリーを作る上で果たす絶大な力)で強引にねじ伏せるやり方にリアリティがあると言えるのか?とも思う。実は映画の方は、その辺の描き方がわりあいうまく、結構リアリティを感じさせるような演出だったが、よくよく考えると「ありえねー」話だ、まったく。
 人間のグロテスクな面ばかりを強調し、しかもあまり救いがない。個人的な感想を言えば、作者(湊かなえ)に対し「愉快犯的な不快さ」も感じるし、はっきり言って「キライ」なストーリーである。こういうストーリーを映画にする必要が本当にあるのかというのが正直な感想である。
★★★
by chikurinken | 2011-08-20 08:06 | 映画