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竹林軒出張所

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『カルロス・クライバー ある天才指揮者の伝記 下』(本)

b0189364_8465674.jpgカルロス・クライバー ある天才指揮者の伝記 下
アレクサンダー・ヴェルナー著
喜多尾道冬、広瀬大介訳
音楽之友社

 『カルロス・クライバー ある天才指揮者の伝記 上』に続く後編。
 『上』同様、少しばかり読みづらい本で、少々難儀した。その原因は、これまた『上』同様、登場人物が非常に多くしかも唐突に出てくることと、翻訳文につながりのおかしい箇所がよく出てくることなどである。句読点の使い方も変で、違和感があった。
 本自体の完成度という点ではこのように疑問符が付くが、ただしかし、『下』を読んで初めて知ったんだが、クライバー自身が自分の子ども達に対して、第三者が書く伝記には一切協力してはならないという遺言を残していたらしく、そのためもあって本書の執筆は非常な困難を極めたという。結果的に、クライバー周辺の多くの人間に聴き取りを徹底的に行うことになり、それが多数の登場人物を生みだすことにつながったようだ。現に本書は、周辺人物の話を集めることでクライバーの人間性をあぶり出していくというアプローチをとっている。そのため、クライバーがキャンセル魔だった理由や、激昂してもめることが多かった理由についても、周囲の人間の視点から推測することになっている。そういうこともあって、本書のクライバー像は、少しぼんやりしていて、普通の伝記のような明確な断言は避けられており、著者自身もそのことを承知の上で書き進めているようだ。とは言っても、クライバーの性格や志向はかなりのレベルまでうかがい知ることができ、周りの人間に映るクライバー像の集積から、一人の人物像を紡ぎ出すことには成功している。
 本書では、1976年から死去した2004年までの、クライバーの最盛期を扱っており、僕がクライバーを同時代人として知っていた時期とも重なっていたこともあって、『上』よりも内容的には興味深かった。クライバーは何よりも日本がお気に入りだったそうで、そのせいもあり日本では名演を残している。1986年のバイエルン州立管弦楽団との日本公演はNHKでも中継され、僕も見て非常に感動を覚えたが、その公演についてもクライバーの側から記述されている(2011年2月現在YouTubeで一部の映像を見ることができる)。また1989年のニューイヤー・コンサートは、当時僕はテレビを持っていなかったためFMラジオにかじりついて聴いていた記憶があるが、そのニューイヤー・コンサートのいきさつも本書で紹介されていた。というわけで、僕の個人史ともかみ合う部分があり、『上』よりもリアルタイム感があって、クライバーの人間性についても『上』より理解できる部分が多かったような気がする。やはりクライバーの音楽家生活同様、後半がハイライトということなのだろう。
 クライバーが、あれだけ周囲や聴衆から称えられあがめられていても、自分の音楽に納得できず苦悩していた様子も本書からよく伝わってきた。レパートリーが極端に少なかったのも、著しく自信が欠如していたためで、キャンセルを繰り返したのも満足いく準備ができなかったことが原因だったためという(例外もある)。しかも名声を得てあちこちから客演の申し出がひっきりなしに来ていた晩年でも、いざ舞台に上がる直前になると極度に緊張し、手が震えていて、舞台に上がりたくないとこぼしていたという話も興味深い。天才指揮者の隠れた一面を垣間見せられる思いがした。

参考:
竹林軒出張所:『カルロス・クライバー ある天才指揮者の伝記 上』
竹林軒出張所『カルロス・クライバーのドキュメンタリー2本』
竹林軒出張所:『伝説甦る……カルロス・クライバーの場合』
竹林軒ネット:『クライバーの田園』
YouTube:『Carlos Kleiber -Johann Strauss II "Die Fledermaus"』(人見記念講堂公演でのアンコール曲「こうもり」:冒頭クライバーが客席に向かって日本語で「コウモリ」と言っているが、本書にはそのことについても記述がある)
YouTube:『kleiber Donner und Bilitz』(人見記念講堂公演でのアンコール曲「雷鳴と電光」)

★★★☆
by chikurinken | 2011-02-27 08:50 |

『めし』(映画)

b0189364_9471379.jpgめし(1951年・東宝)
監督:成瀬己喜男
監修:川端康成
原作:林芙美子
脚色:井手俊郎、田中澄江
出演:上原謙、原節子、島崎雪子、杉葉子、小林桂樹、大泉滉、杉村春子

 とある若夫婦(結婚5年目とか)に訪れる倦怠と再生の物語。日本版の『夜』という感じだろうか。
 監督は成瀬己喜男で、林芙美子の原作をたびたび映画化しているが、成瀬にとって本作が林作品の最初の映画化だそうだ。監修として川端康成の名前が連なっているが、実際に何をしたのかはよくわからない。原作は林芙美子の未完の遺作だそうで、そのためもあって途中から独自の脚色になっているという。なるほど林芙美子らしくない結末ではある。
 内容は、自分たちの夫婦のあり方に疑問を持ち始めた専業主婦の視点から夫婦のありようが問われるというようなもので、きわめて現代的な問題でもあるが、切り込みがもの足りないような気もする。特に今の視点から見るとちょっと甘いような、もう少し突っ込みがあった方が良いんじゃないかとも思うが、映画としてはまとまっていて良くできている。特に上原謙と原節子が演じる夫婦の人物像が非常によく描かれていてなかなか見事である。
 実は僕がこの映画で一番惹かれたのは、1951年当時の東京、大阪、川崎の風景であった。10年ほど前に実際に足を運んだ場所も出てくるんだが、映画当時の風景は戦後数年ということもあって、ひなびてはいるが趣のある江戸情緒を残すようなたたずまいで、大変感慨深かった。こういった昔の映像を見るたびに感じるのだが、大事なものを失ってしまったという感覚がいつも残る。
キネマ旬報ベストテン1951年第2位


★★★☆
by chikurinken | 2011-02-26 09:48 | 映画

ハナゲから推し量る利己主義

 「本は借りて読んでから、面白かったら買う」という方針を決めてから久しい(竹林軒出張所:『蔵書票』参照)。そのため、図書館は今の僕にとって欠かせない存在である。
 ただ、図書館自体の存在は非常にありがたいものなのだが、利用者の中には心ない人間もいるようで、本に書き込みされてたりすると相当な不快感に襲われる。ひどいのになると写真や図版が切り抜かれているものもある。しかもカッターかなんかで非常に丁寧に切られている。切った人間はその切り抜きを大切にするつもりで切ったんだろうが、そういう心づもりがあるのなら公共物である本自体に向けてほしいものである。
 こういう人間に対してはかなりの反感を持っているので、本当は「このバカは」とか「このアンポンタンは」とかいう言葉を使いたいくらいだが、このブログの品格を損ねることになるので、ここでは極力落ち着いた調子で書きたいと思うが、おそらくこういう「人間」は、ゴミなんかも平気で路上に捨てたりするような「自分さえ良ければそれで良し」というタイプの人種なんだろうと思う。そのくせ自分の家はきれいにしていて、人が少し汚そうものなら烈火のごとく怒るような、すこぶる付きの利己的な人間だと勝手に推測している。おそらく、書き込みや切り抜きをする人間は図書館利用者のごく一部なんだろうが、1人でもいれば、その被害はその本の利用者全員に及ぶわけで、こういう公共意識や倫理観が欠如した人間には、図書館に近付いてほしくないと切に思う。もちろん僕の周辺にも近付いてほしくないのは言うまでもない。
 さて、書き込みや切り抜きでもこれくらいむかっ腹が立つものなんだが、今借りている本『カルロス・クライバー ある天才指揮者の伝記 下』には、怒りと言うよりあきれ果てるほどの所業が施されている。ちなみにこの本は値段が4000円近くもする本で、図書館で借りて読むのにピッタリというものである。上巻はすでに図書館に入っていて以前読んでおり(竹林軒出張所:『カルロス・クライバー ある天才指揮者の伝記 上』を参照)、下巻が図書館に入るのは長いこと心待ちにしていたもので、それがつい先日入荷するという運びになった。そういうわけで、急いで予約を入れて、先日やっと僕の元に届いたという新刊である。ところが新刊であるにもかかわらず、前に借りた人間がひどい所業を働いているのだった。
 最初は何かよく分からなかった。189ページの下の方に、何やら短い毛のようなものが付いており、当初はあまり気にしなかったのだが、その後のページもその後のページも約40ページに渡ってほぼ毎ページに2、3本、多いページには4、5本ずつ同じような箇所に付けられている。中には白いものもある。何ページ分かは払い落としたのだが、ページにくっついていて簡単には落ちないようになっている。何かの毛か……と思いながらふと思い至った。これはハナゲに違いない! 長さから行ってきっとそうだ。しかもページにくっついているという点から考えると、鼻水が接着剤代わりになっているのではないか……そう結論付けた(汚い話で申し訳ない)。白いものが混ざっている点を考えると、年の頃は40代以上で、しかも音楽好き(クライバーの本だから)。この毛はページの下部にまとめて付いているところを見ると、おそらくこの年配の男(この厚かましさは男に特有のものだと思う)は、この本を読みながら鼻毛を抜き、それをご丁寧に、各ページの下部にわざと貼り付けていったのではないかと、ここまでは容易に推測できた。
b0189364_15292577.jpg 本を読んだりすれば、髪の毛が落ちたり、あるいは鼻毛が落ちたりすることもあるだろう。そういうことにいちいち目くじら立てたりはしないが、意図的に公共の本を汚したとなれば話は別である。こんなことを平然とやるくらいなので、おそらく家族からも同僚からもあまりまともに相手にされていない人間なんだろうと思うが、とにかく「こいつには今後二度と図書館の本に触ってほしくない」と心底願うくらい、僕はこのことで著しく気分を害したのである。この約40ページ分は、ページを開くのも嫌なくらいだったが、下の方に触れないようにしながら、なんとか昨日やっと通過できた。まったく胸くそが悪くなるような話である。ちなみにこの本は、市立図書館の本である。興味のある方はご自分の手で確かめていただきたい(そんな人はいないと思うけど)。
by chikurinken | 2011-02-25 15:31 | 日常雑記

『至福のとき』(映画)

至福のとき(2002年・中)
監督:チャン・イーモウ
原作:モー・イェン
脚本:グイ・ズ
出演:チャオ・ベンシャン、ドン・ジエ、フー・ピアオ

b0189364_18361233.jpg 監督のチャン・イーモウは、かつて『古井戸』(主演と撮影で参加)を見たときから注目していた。現代中国を代表する優れた映画人で、それ以降もコンスタントに優れた作品を生みだしている。本作DVDのパッケージには「『あの子を探して』『初恋のきた道』に続く≪しあわせの三部作≫最終章」とあるが、『あの子を探して』とも『初恋のきた道』ともやや系統が違う。共通するのはオール・ロケということと、チャン・イーモウの職人芸が随所に発揮されていることか。
 この映画のストーリーは、盲目の少女(と言っても18歳という設定である)とそれを助ける冴えない中年男の話で、なにやら『チャップリンの街の灯』を思わせるが、展開も童話みたいに少しばかり単純である。中年男が少女を女として感じないのかという点も引っかかる箇所である(もっともそんなことになったらこの話自体成立しないが)。とは言うものの、そこはチャン監督、文字通り切り取り方が絶妙で、えらいところで切り取っちゃったなという感じではあるが、見終わった後「ほろ苦い後味」が残る。まさに一編の詩のような味わいで、このあたりは見事というしかない。
 また、『初恋のきた道』などと同様、女優(ここではドン・ジエ)の魅力を100%出し切っており、ここらあたりもさすがにチャン監督とうならせられる。この監督の場合、大林宣彦のようなロリコン趣味的な見せ方(それはそれで良いんだが)ではなく、女優としての持ち味を存分に発揮させるところがある。コン・リーにしろチャン・ツィイーにしろ、その後大女優になっているところを見ても、チャン監督の女優の活かし方のすごさがうかがわれるところだ。
 チャン監督の映画をたどってみていると、中国社会の変貌みたいなものが伝わってくるような気がする。彼の映画では、その社会のうねりの中で押しつぶされそうになる人々が描かれることが多いが、この映画もそういう側面があって、この映画のモチーフと似たような話は以前、あるドキュメンタリーで見聞きしたことがある。童話のような単純な話であっても、その背後に現代社会というものが塗り込められており、この監督、相変わらずすごいなと思わせられる部分である(「相変わらず」と言っても、この映画、9年前の作品ではあるが)。

★★★☆
by chikurinken | 2011-02-24 18:37 | 映画

『地の果てを行く』(映画)

地の果てを行く(1935年・仏)
監督:ジュリアン・デュヴィヴィエ
原作:ピエール・マッコルラン
脚本:シャルル・スパーク、ジュリアン・デュヴィヴィエ
出演:アナベラ、ジャン・ギャバン、レイモン・エイムス、ロベール・ル・ヴィギャン

b0189364_811589.jpg ジャン・ギャバンの出世作だそうだ。ジャン・ギャバンの名前がまだ大きくなる前だからか、クレジットではアナベラが主演扱いになっている(たぶん)。25年ほど前に京都で見た(文化芸術会館だったと思うが定かではない)映画で、見るのは今回が2回目だが、特にラスト近くの感動的なシーンが印象的で、映像もしっかり憶えていた。
 ピエール・マッコルランという人の小説が原作のスペイン外人部隊の話だが、ストーリー自体はちょっと無理があるような気もする。良くできてはいるが。
 ジャン・ギャバン、レイモン・エイムスらが演じる登場人物が魅力的で、今となっては芸術映画の範疇に入るのだろうが、エンタテイメント的な要素も多い。特に前半はなかなか緊迫感があって、スリルとサスペンスの展開になっている。映画の印象は25年前に見たときとあまり変わらず、試聴後感がなかなかさわやかで、「良い映画」という印象であった。
★★★☆

参考:
竹林軒出張所『にんじん(映画)』
竹林軒出張所『望郷(映画)』
by chikurinken | 2011-02-22 08:13 | 映画

『ネットが革命を起こした』(ドキュメンタリー)

ネットが革命を起こした 〜アラブ・若者たちの攻防〜(2011年・NHK)
NHK総合 NHKスペシャル

b0189364_11461516.jpg
 チュニジアの「ジャスミン革命」に端を発した中東・アフリカ諸国での革命連鎖について、ネットとの関わりを中心に解説していくドキュメンタリー。チュニジアとエジプトのケースが中心に扱われていたが、個人的には、あまり詳しいことを知らなかったため大変役に立った。
 チュニジアの場合、警官から嫌がらせを受けたある路上商人による抗議のための焼身自殺がきっかけになった。この映像がフェイスブックを通じてチュニジア全土に広まり、現政権に不満を持つ人々の共感を呼んだことが発端になった。一方エジプトの場合も、反政府デモのスケジュールなどがフェイスブック経由で伝達されるなど、インターネットが強力なツールになったという。
 エジプトの場合はこれまでも同様の活動は行われていたが、すぐに当局の知ることとなって弾圧されていたため、活動がうまくいくことはなかった。ところが今回は、暗号化が可能なフェイスブックが利用されたため、当局の介入が難しくなり、反政府活動の活発化を招いたという。政府当局も、ネット接続禁止などの強硬な措置を執るが、これに対しては諸外国が一斉に非難を浴びせただけでなく、「アノニマス」と呼ばれるインターネット活動家の実力行使(政府系サイトへの攻撃)により、結局5日間でネットを解放せざるを得なくなった。このように、今回のジャスミン革命関連の反政府活動には、インターネットの力が大きく作用している、というのがこの番組の中心テーマである。
 世界中で識字率が向上し、民主化への意欲が広がっていく中、近年南米でも民主的な政府が登場してきていた。そういう意味では、中東・アフリカは、強権政府の最後の砦と言っても良いほどで、きっかけさえあれば民主化が進むのは想定されることであった。今回そのきっかけの重要な要素になったのがネットということなのだろう。ただし、今回のチュニジア、エジプトの両方のケースで言えることだが、強権政府を打倒したは良いが、その後の計画がまったく立っておらず、この点が従来の革命と大きく違っている部分だ。通常であれば革命は、先導する人々がいて、かれらが受け入れられ、旧勢力と衝突しこれを打倒していくという過程をたどる。したがって革命後に政権担当者がいないということはあまりない。そういう意味でも今回のケースは、歴史上特異で、今後の推移が注目されるところである。
★★★☆

参考:
竹林軒出張所『“アラブの春”が乗っ取られる?(ドキュメンタリー)』
竹林軒出張所『チュニジア民主化は守れるのか(ドキュメンタリー)』
by chikurinken | 2011-02-21 11:47 | ドキュメンタリー

『地下深く永遠に ~核廃棄物10万年の危険~』(ドキュメンタリー)

地下深く永遠に ~核廃棄物10万年の危険~
(2010年・デンマーク Magic Hour Films)
NHK-BS1

b0189364_12142244.jpg フィンランドに建設中の核廃棄物最終処分場オンカロ。世界に先駆けて運用が始まる見通しだが、最終処分場とは言っても、実は地中深く(地下500m)に高レベル核廃棄物(原子力発電の際に発生するもの)を貯蔵するだけの施設に過ぎず、放射能が無力化するまでの10万年間、地上に影響を及ぼさない状態で核のゴミを放置するための施設である(核廃棄物最終処分場はどの国でも同じもの)。
 そもそも原子力発電では、核廃棄物の処理についてまったく考慮されておらず、したがってこういった廃棄物のやり場に困ることになる。廃棄物が次から次へと産出されてもそれについては一切顧みず、原発の良い面だけを強調して推進してきたのが、日本を含む先進国の政府である。その背景にあるのは「困ることは存在しないことにする」という究極の楽観性で、おかげで現在のわれわれは、廃棄物の処理について頭を悩ませなければならなくなる。だが後世の世代はもっと大変で、こんな危険なものを向こう10万年間もアンタッチャブルの状態でやり過ごさなければならない。
 さて、このドキュメンタリーでは、世界に先駆けて建設されるオンカロの関係者へのインタビューをつなぎ合わせて、オンカロを含む現在の原子力のシステムに疑問を投げかける。たとえばオンカロでは、10万年間人類がこの施設に侵入しないように、いろいろな言語とシンボルで警告信号を周辺に掲示していくらしい。そもそも10万年後の人類がどういった様相になるのかすら想像できないのに、そういった人々を想定して警告信号を残してもあまり意味がないと思うが、核廃棄物最終処分場に関しては、そういった議論を真剣にしなければならなくなる。そのあたりのバカバカしさは、インタビューを聞いているこちら側にも伝わってきた。
 よくできたドキュメンタリーではあるが、インタビュー中心で、しかもそれほど目新しい事実があるわけでもないため、途中少し退屈した。原発を取り巻くシステムの愚かさ加減は非常に良く伝わってくる。
2010年国際環境映画祭(パリ)グランプリ受賞作品
★★★
by chikurinken | 2011-02-19 12:16 | ドキュメンタリー

光がきた

b0189364_913368.jpg 永らく心待ちにしていた光回線が我が家に来た。なにしろウチではISDNとADSLを併用していたため、基本料金だけで9000円近くになるというべらぼうな状態だった。
 前に住んでいた家ではISDNを使っていたが、今の家に引っ越してきたとき、さすがに速度がネットのコンテンツについて行かなくなって、ADSLに変更した。とは言っても、仕事用と家庭用で電話番号が2つ必要だったこともあって、ISDNはやはり捨てがたい(ISDNでは電話を2回線分導入し2番号鳴り分けという技ができた)。ということでISDNとADSLを併用するという、相当無駄なことをやっていた。光回線にすればそういう珍妙な状況を解消できるのだが(光電話ではISDN同様2番号使える)、今の家が郊外……というかへんぴな場所にあるので、近所まで光回線が来ていなかった。引っ越した当時から光にしたかったのは山々だったが、待てど暮らせど光はおろか、ADSLも遅い回線しか届かなかったのだ。「インフラ格差」がひしひしと身にしみる数年間であった。
 そんな折、今年になって光回線がついにこの田舎にも通るというニュースを聞き、いつ来るのか、もう来たのかが非常に気になって、NTTのホームページで絶えず確認していたところ、先日NTTを名乗る電話があり、光回線にしないかという勧誘があったのだ。「とうとう来た!」という思いで、はやる心を抑えながら詳細を聞いたが、どうもNTTではなく「NTTが委託した仲介業者」が電話の相手ということがわかり、最初から企業名をきっちり名乗らなかったり、そもそも勧誘の電話をよこすなどちょっと怪しい部分があるため、こちらは断りを入れ、早速NTTに申し込んだ。ちなみにこの「NTTが委託した仲介業者」は、悪質な電話勧誘が少し問題になっている業者で、ネットで調べたらいろいろと出てきた。やはり訪問販売や電話勧誘をする企業なんてのは信用がおけない(そのあたりは竹林軒ネット:『訪問販売について、怒りにまかせて書いた』でも書いたので参照してください)。
 さて、しばらく待たされたが、約1カ月経ってNTTの工事が執り行われることになった。工事は昇降車が近所に来たり、家の外壁にいろいろなケーブルを打ち付けたりでちょっとばかりものものしい感じもあった。正規の工事料金は2万円ほど(現在はキャンペーン中ということで無料)だが、なるほどそれなりの作業である。室内の配線工事とあわせておよそ1時間半ですべて完了した。接続の設定はこちらで行うことになっている。
 接続設定は、一見ややこしそうで、しかもマニュアルやホームページにはMacには対応していないなどと書かれているので少しばかり緊張するが、ウチでは無線LANルータを使っていることもあり、移行作業は無線LANルータをADSLモデムから光用のホームゲートウェイという端末機器につなぎ替えて、後はプロバイダに接続し直すだけという至って簡単なものであった。プロバイダは、信頼性の高いASAHIネットで、前日にADSLからフレッツ光への移行の申込みをしておいた。申込みさえしておけば、そのままADSLを継続使用して、光に変わったときに光回線で接続すれば、それで光への移行がOKになるという、きわめて良心的なシステムである。そうはいっても新しいシステムへの移行というのはとかくトラブルがつきまとうので多少不安はあったが、実際にやってみるとものの5分で片付いた。非常にあっけない。通信速度はそれほど劇的に向上したわけではない。なぜなら光回線の速度より無線LANの速度の方が遅いためで、IEEE802.11nという規格のルータに変更すればもう少し速度も上がるだろうが、設定が面倒なので当分このままで行こうと思っている。こうしてついにISDNに決別できたのであった。
 さて、料金であるが、工事費(ひかり電話交換機、同番移行、交換器廃止)が締めて6,000円。通信料金は基本月5,700円で、しばらくはいろいろ割引があるということで、現在の半分から2/3程度になる(また、プロバイダ料金が300円増える)。それだけでも十分元が取れる気がするが、これで通信速度もビュンビュンになれば、まったく申し分ない。どうしても速度が必要なときは、パソコンをホームゲートウェイに直接接続すれば良いのであるし。今のところはまったく不満はない。まさに「暗闇に光」という話……。
by chikurinken | 2011-02-17 09:03 | 日常雑記

『吾輩は猫である』(映画)

b0189364_20371655.jpg吾輩は猫である(1975年・芸苑社)
監督:市川崑
原作:夏目漱石
脚本:八住利雄
潤色:市川崑
出演:仲代達矢、波乃久里子、伊丹十三、岡本信人、島田陽子、岡田茉莉子、篠ヒロコ、篠田三郎、前田武彦、左とん平、三波伸介、神山繁

 夏目漱石は好きな作家で、その中でも『猫』は一番好きな作品の1つである。かつて大学で日本近代文学(特に漱石)を研究している先輩に「漱石が好きだ」と言ったところ、その人が非常に乗ってきて、とは言ってもあちらは晩年の作がお好みのようで話がかみ合わず、あげくに「君の好きなのは『猫』とかそういったものなの?」とあきれ気味に言われたことがある。今でもはっきりと憶えているのは非常に不快感を感じたためである。つまり「通俗的なイメージがある『猫』がダメで、崇高なイメージがある晩年の(退屈な……と僕は思っているんだが)ものだったら良いとでも言うのか!」と言うような反感を持ったのであった。それに、あざけり気味の調子が気に食わなかったこともある。逆にこちらとしては、あの『猫』の諧謔性や「上品な可笑しみ」の味わいがわからないかなと言いたくなるところだ。ま、とにかくそういうわけで、僕の中では『猫』と『三四郎』が一番なのである。
 さて、その『猫』の諧謔性や「上品な可笑しみ」を見事に映像化したと僕が思っている映画が、この市川崑が監督した『吾輩は猫である』である。以前、ものすごくカットされて短縮されたバージョンをテレビ放送で、しかも途中から見たことがあるんだが、そのときに非常に感銘を受けた記憶がある。ともかく、原作の持つ味わいを巧みに再現できていることに感嘆したのだった。そのときから市川崑のすごさというのを理解したわけだが、いずれ機会があればノーカットで通して見てみたいと思っていたところ、先日スカパーで放送され、それをこのたび拝見したという次第。
 でやはり、以前と同じように、非常に楽しめたのであった。映画は、原作よりもう少し「苦沙弥先生寄り」になっているが、原作みたいに猫を主人公にしてずっとナレーションで語られるより、この映画のように「苦沙弥--つまり漱石の日常風景」みたいに淡々と描く方が、原作の味わいをうまく伝えることができると思う。そういう意味でも、この脚本、潤色は成功である。
 またキャスティングが絶妙で、仲代達矢の苦沙弥先生は漱石そっくりで、僕が持つ漱石のイメージにきわめて近い。神経衰弱具合も巧みに表現されている。その周辺のちょっととぼけた人達(迷亭や寒月、東風など)も伊丹十三、岡本信人、篠田三郎らが飄々と演じていて、原作の可笑しみが伝わってくる。漱石作品の持ち味をほぼ完全に翻案できているという点でも、漱石映画ではおそらく最高レベルの作品ではないかと思う。このスタッフ、キャストで作られた『三四郎』も見てみたい(実際には存在しないが)と思わせるような映画で、文芸物はかくありたいと感じられるような作品であった。地味な映画ではあるが(そのせいかDVDは出ていない(注:その後発売された))。
★★★★

参考:
竹林軒出張所『細雪(映画)』
竹林軒出張所『炎上(映画)』
竹林軒出張所『おとうと(映画)』
竹林軒出張所『鍵(映画)』
竹林軒出張所『野火(映画)』
竹林軒出張所『太平洋ひとりぼっち(映画)』
竹林軒出張所『ぼんち(映画)』
竹林軒出張所『夏目漱石のこころ(映画)』
by chikurinken | 2011-02-16 11:59 | 映画

『夜』(映画)

(1961年・伊仏)
監督:ミケランジェロ・アントニオーニ
脚本:ミケランジェロ・アントニオーニ、エンニオ・フライアーノ、トニーノ・グエッラ
出演:マルチェロ・マストロヤンニ、ジャンヌ・モロー、モニカ・ヴィッティ、ベルンハルト・ヴィッキ

b0189364_17173224.jpg ミケランジェロ・アントニオーニの「愛の不毛」三部作(四部作?、五部作?)の1本。
 多分にアントニオーニの私生活を反映した私小説的映画である。タイトルの『La Notte』は「夜」には違いないがニュアンスとしては「その夜」に近いのではないかと思う。ある日の昼間から翌朝までの、とある夫婦の足取りをたどった話で、ストーリーに直接関係ない映像が随所に流れる。映画的つまり説明的な映像ではなく、日記的な感覚で時間経過が表現されていると言える。また象徴的なカットもいくつかあるが、その意味も、またストーリーと関係あるかどうかも実のところ見ていてよくわからない。
 テーマは夫婦間の愛についてで、非常に今日的な問題でもある。夫(マルチェロ・マストロヤンニ)が惹かれる美女を、当時アントニオーニの愛人でもあったモニカ・ヴィッティが演じており、かつて妻(ジャンヌ・モロー)を愛した病気の男を演じるのが、映画監督としても名高いベルンハルト・ヴィッキである。キャスティングも非常に凝ったものになっている。
 テーマやストーリーはなかなか面白いが、いかんせん、本当に(一見)無駄な映像が多く、前半部分はかなり退屈して疲れる。だがこれを、当時の風俗を表した映像であり、しかも時間経過や登場人物の心情を巧みに表現しているものとして捉えられれば退屈しないかも知れない。映像自体はモノクロで詩的であった。

★★★
by chikurinken | 2011-02-14 17:18 | 映画