ブログトップ | ログイン

竹林軒出張所

chikrinken.exblog.jp

『東電福島原発事故 総理大臣として考えたこと』(本)

『東電福島原発事故 総理大臣として考えたこと』(本)_b0189364_9475976.jpg東電福島原発事故 総理大臣として考えたこと
菅直人著
幻冬舎新書

何が彼を脱原発にシフトさせたか

 福島原発事故当時首相だった菅直人の回想記。
 あの事故以来、さまざまな報道機関でいろいろなことが報道されてきたが、それはあくまでも外部からの目であり、ともすれば独断的な評価が伴うものである。そのため、事故の対処に当たった内部の人間、特に当時最高責任者であった著者からの視点が明かされることは非常に有意義であると言える。
 2011年3月11日、東日本大震災が起こり、それに伴って福島第一原発でメルトダウン事故が立て続けに起こったことはご承知の通り。そしてそれに対して、首相官邸内に緊急災害対策本部、原子力災害対策本部が急遽作られ、事故の対応に当たることになった。そこから、二度の水素爆発、放射性物質の放出などを経て、一定の収束のめどが付くまで、官邸側がどう感じどう動いたかが本書で時系列に述べられている。大筋では、以前NHKで放送された『NHKスペシャル シリーズ原発危機 第1回 事故はなぜ深刻化したのか』(竹林軒出張所『シリーズ原発危機 第1回(ドキュメンタリー)』参照)で紹介されたものと同じだが、それに加えて、なぜ首相が大学時代の友人を参与に任命したかや、なぜ福島第一原発までヘリで視察に訪れたかについても説明がある。そしてそれが、一部のマスコミで批判されているような気まぐれな動機では決してなかったこともわかる。そもそもなぜあれほどのヒステリックな菅タタキが起こったのかもにわかに理解しがたいが(右翼マスコミの誘導によるということぐらいは察しが付くが)、著者が本書内で言うように「私が脱原発の姿勢をはっきりさせ始めた頃から、私に対する攻撃が激しくなってきた」(160ページ)こともあったんだろう。
 原発災害対策に実際に当たった首相の立場として、当時直面した問題点についても率直に述べている。原発災害対策のためのシステムもろくに機能しない上、必要な情報が東電から満足に上がってこないという現実があったらしい。本書の記述からは、現場で災害対策のシステム作りから始めているような印象すら受ける。大学時代の知人を介して東工大の原子力の専門家を呼んだり原発製造メーカーである東芝や日立にも協力を呼びかけたりしたのも、情報の著しい欠如ゆえである。また、自衛隊に指揮権を与えるなど大胆な方策を行っていることも本書で明かされている。こういうことは、部外者にはなかなかわからない部分である。ましかし、いわば参謀本部がそんな状態なので、災害対策が円滑に進むはずもなく、それが被害を拡大させる要因になったようだ。
 そもそも日本に原子力災害に対応するためのシステムがなかったという、信じられない事実が発覚するのも今回の事故がきっかけだった。近接した原子炉が次々にメルトダウンを起こしチェルノブイリ以上の大惨事になる可能性さえあったわけで、著者によると、本当に偶然のおかげでそれを回避できたということなのだ。もちろん現場での決死的な活動があったのは事実だが、しかしもしいずれかの原子炉が破裂していたら、近隣に誰も近づけなくなるため、原子炉破裂と燃料棒プールでのメルトダウンが連鎖的に発生することになる。1つでも暴走すると手が付けられなくなる。そしてそれがたまたま回避できたに過ぎない。そのことが、当時の最高責任者の首相だった人間によって率直に語られる。
 今再び原子力回帰の動きが出てきているが、もう一度、当時の状況を身近に感じることで、日本を崩壊させるポテンシャルを持つ原子力発電所について考えてみるのも良いのではないかと思う。
★★★☆

参考:竹林軒出張所『シリーズ原発危機 第1回(ドキュメンタリー)』
by chikurinken | 2013-01-14 09:50 |
<< 『日本国債』(ドキュメンタリー) 『外国人が見た禁断の京都』(ド... >>