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竹林軒出張所

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日本映画の「文革のようなもの」

 このブログでは、映画とか本とかについていろいろ批評みたいなことをやっているんだが、非難めいたことを書くのは極力避けたいと常々思っている。批評は賞賛が基本である。やはり作る方にも事情があるわけで、たとえダメな(だと思える)ものであっても、公の場所で難癖を付けるのは考えものであると思う。ましてや、批判の内容がトンチンカンな場合(往々にしてそうなるが)は、批判する側にとっても批判される側にとってもちょっと救いようがない。批判される側から見ると、たとえそれが駄作であっても、公然と言われると良い気持ちがしないものだ。Amazonのレビューを読むと、ときに、「上から目線」で悪意のある文句をつけているものもあるが、読んでいて胸くそが悪くなる(もちろん批判レビューにも良いものはある)。トンチンカンなことが書かれていると、逆に、書いている方の知性が疑われてしまうというものである。

 さて、ここまで言い訳めいたことを書いてですね、ちょっと今回は批判みたいな感じになるんですね。気分が悪くなりそうな方は、飛ばしてくださいませ。

 昨日『青春の蹉跌』(1974年・東宝)という映画を見た。監督:神代辰巳、脚本:長谷川和彦、撮影:姫田真佐久、出演:萩原健一、桃井かおり、檀ふみという豪華スタッフ、豪華キャストの映画だったんだが、映画の構成が支離滅裂で、10分過ぎから時計との格闘になり、結局30分でリタイアして、その後は飛ばしながら見た。でも、最終的に飛ばし見は正解だったと思っている。
日本映画の「文革のようなもの」_b0189364_93738.jpg この頃の映画によく見られる、実験的な映像みたいなものもちょくちょく出てくる。だが、どれもピントを外していると感じた。映画の流れからはむしろ邪魔である。キャストに対する演出も良くないし、妙にすかした恰好をしたショーケン(しかも体育会系の学生!)も、まったくリアリティがなく浮きまくっている。カメラも近すぎて窮屈で気分が悪くなる。何より脚本が良くない。悪いがデタラメに近い。シナリオ学校の生徒が書いているかのようで構成がまったくなっていない。映画は作る側が一方的に流し続ける芸術であるため、見る側のこともある程度配慮してもらわなければならない。先進的なつもりかしらんが、こんな作り方をされてはついていけない。
 学生の頃、映画館でこういう類の映画をよく見たが、途中で過剰に疲れてしまって、劇場を出るときはどんよりとした倦怠感のみが残った。この手の映画を名作だとか芸術だとか持ち上げる風潮が当時あったせいで、こういうものが過剰に評価された時代があった。ちなみに、この映画も、キネマ旬報ベスト10で上位にランクされていたし、当時社会的に高く評価されていたのだろう。だが僕は、こういう映画は一種の「裸の王様」だと思っている。ダメなものはダメ!とはっきり言った方が良い。さすがに最近の日本映画でこの手のものは少なく、映像によく慣れている世代が作っているせいか、ある程度の調和というか整合性が保たれている。前の世代を反面教師にしたのかどうかはわからないが良い風潮だと思う。もっとも当時の作り手たちに言わせると「予定調和で面白くない」ってことになるんだろうが(僕もかつて某ライターに似たようなことを言われたことがあるが)。
by chikurinken | 2010-04-30 22:28 | 映画
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